★いつも応援、ありがとうございます!★
にほんブログ村 演劇ブログへにほんブログ村 演劇ブログ 演出家へにほんブログ村 アニメブログ 声優へ人気blogランキングへ

2012年01月06日

あけましておめでとうございます! そして…

武藤賀洋の演出ノートblogをご覧の皆様、こんばんは!

あけましておめでとうございます!
旧年中は当ブログをご覧いただき、応援していただき、本当にありがとうございました!
今年も更に精進して参ります!!
本年もご贔屓いただけますようよろしくお願いします。

さて、実は、この演出ノートBlogの記事も大分たまって参りましたので、
心機一転、こちらのブログで今まで通りお芝居の研究の事、
普段の私のこと、音楽編集ソフトのことなどなど書いていきたいと思います。
こちらもご贔屓いただけますよう、よろしくお願いします。

新しいブログ
偽典:もなから文書
をどうぞよろしくお願いします!
posted by 武藤賀洋 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月09日

歳を聞かれても困ります〜

寒いです。
寒すぎます。
師も走る、という師走。
このブログを読んでいただいている皆さんは体調を崩されていないでしょうか…
私は今、何故か寒すぎて左手が痛いです〜


さて、さて。
今回は役作りする中で『年齢』ということをテーマに書きたいと思います。
私は講座やお稽古の中で役者さんに
「この役は何歳くらいなんですか?」
と聞かれるととっても困ってしまいます。

何故って・・・
年齢を、歳という値に複数で話しあう上であまり意味を見いだせないからです。
ひねくれているからかもしれませんが・・・
例えば、”14歳”と聞いてイメージすることは人それぞれ違うと思うのです・・・
役に向かい合うためにはイメージ、想像する事がとても大事なのですがこの年齢という指標、実はとてもあいまいなものだと思うのです。


とある台本を読みつつ、その役の年齢を参考にすることはとても有効だと考えます。
しかし、この年齢というものがちょっとクセモノだと私は考えています。

どういう事かと言うと、
『年齢という値は、共有できない』
のではないか、と考えています。

これは自分の実年齢と違う年齢設定が台本上に書いてあったとしても、それは、読んだ人間によってイメージする印象が著しく違うと考えるからです。

例えば、14歳の役があるというときに、
ある人は
 ・やんちゃな時期だね〜
と思ったり、
またある人は
 ・受験勉強をたくさんして、きっと一生の内で一番勉強した時期
と捉えるかもしれません。
無論、その台本にかいてある情報に即したイメージはできますが。
また、もう一方で例えば、'声'についても…
”14歳”をイメージした時の声というのは人それぞれ違うと思うのです。
また、14歳を若いと感じるか、躍動的な年齢と感じるか、14年間生きた人間と考えるかによって変わってくると思います。


実際に具体的に年齢という指標はとても解り易いものだと思います。
しかし、演出家を含めて、この値に対して、合致するイメージが必ずあるかと考えるとなんとも抽象的な感じになってしまいます。


私の考えですが、こうした場合、他の登場人物との比較をすることによって、より具現化するのではないでしょうか。実年齢もそうですが、台本の舞台となる中心的話題でも比較の対象になると思います。例えば、とある物語の舞台が『被服業』だっとしたら…

『AさんはBさんよりも若いだろうけども、恋愛にかんしてはBさんよりも経験豊富』などなどとイメージできると思います。


こうした詳細なイメージを組み合わせることによって、年齢―――その役の若さが捉えることができると思います。
同時に、こうした中で、大事だと考えているのが、
『どういった経験をしているのか』
ということです。

その登場人物には必ず背景が存在します。
登場人物が登場するその瞬間までに、他の登場人物、または登場しないけれども、関わったであろう人物とどこで何をしたからこそ、その登場人物の行動になったのか、ということを明確にイメージすることの方が大事だと私は考えています。
posted by 武藤賀洋 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月02日

注意力散漫?!神経衰弱?! 緊張と硬さ

すっかり冬ですね〜
こんな日はお鍋でもつつきたいです♪

さてさて、今日のお話は「緊張と硬さ」ということについて書きたいと思います。

先だっても書きましたが、お芝居をしている時にはテンションを張る、という意味での緊張はとても必要だと考えています。
しかしながら、緊張を通じて、身体が硬くなったり、気持ちが切り替わらなかったりしたら、これは本末転倒です。

−――例えば車を運転する人はよくご存知かもしれませんが、−――
『前を見て運転しましょう』よく言われる注意文句です。しかしながら、これを額面どおりに捉えたら、
安全運転の一部分しか反映されていません。車を運転していると、四方八方から危険がやってきます。
ルームミラーを通じて、後ろの確認も必要です。前だけを見ていたら、大変です。
脇見よそ見をするのではなく、四方八方に注意を配ることが安全運転の秘訣だ、そんなことを警察の知り合いの方に教わったことがあります。

上記は例え話ですが、昨今問題になっている、飲酒運転。飲酒をしたら、注意力散漫、状況判断が鈍くなってしまうため、事故を起こす可能性が非常に高くなり、その事故は致死率が高いというのは誰が考えても明かだと思います。

お芝居も、脚本があるとは言え、計算し尽くされない部分も多くあります。
また、その時その時に反応しなければ、誰がやっても同じというある種つまらないものになってしまいます。

話はちょっと逸れますが・・・個性というのは、見た目、外見、喋り方、雰囲気で既に構築されているそうです。ですので、”自分しかできないことをやってやろう!”というように力むのはかえって個性をつぶしてしまう可能性もあるのです。

閑話休題。だとしたら、お芝居を創っていく上で他の人と区別され且つ”生きたお芝居”をするにはどうしたらいいのでしょうか。
それは常に舞台上の至る所に注意を払い、自分の動きは自分でコントロールできるようにしていくことが良いかと思います。注意を払い、それに反応できるようにすることが非常に重要だと思います。
これは視線や聴く力などが色々な状況からくる硬さで役に立たなければまったくもって、意味がなくなり、「前だけみる」運転になってしまいかねません。

お芝居をする前には準備運動などをしっかりとして、対応できるリラックス環境を自分で構築し、お稽古やレッスンに入ったらテンションを張り、色々なところに注意を払うのが肝要だと考えております。
posted by 武藤賀洋 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月25日

再度・・・芸術に答えはない

大変おそくなりましたが、先日の劇団新和座第5回公演 トンデモ医者にお運びいただき、
また応援していただき、本当にありがとうございました!
これからも更に求め続けて、精進してまいりますので皆様、どうぞ引き続きご贔屓いただけますようお願いいたします。

さて、このブログの最初の方にも書いたのですが・・・
私は、
『芸術に答えはない。』
と考えております。

どんな物語でもどんなお芝居でも、「正解」なんてないと思いますし、
「正解」を求めてつくったりしたら、楽しくないと思っております。
その物語や役について、役者が10人いれば10人分の、スタッフが10人いれば10人分の、
お客様が100人いれば100人分の答え、正解があり、どれが一番正しいかということはないと感じております。と同時に正解を求めることが非常に困難だと考えております。

では、なぜ正解を求めることが困難、答えがないと考えるのでしょうか。
正解を求め悩むから「つくる」という行為が終わった後、充実感があるとも思えます。
しかしながら、我々が手がける世界は人が相手の職業だと思うのです。
―――。万人を満足させることのできるお芝居に私は未だ出会ったことがありません。
演技、演劇にも数学などに用いられる公式のようなものがあれば答えを導きだす
のは簡単なように思えます。
もし、芸術の世界に公式が存在していたら・・・芸術家、表現者、みな同じものを導き出して気持ち悪いと思います。

ただ、やはり『セオリー』的なものは存在すると思います。
そのセオリーを学んで自分自身で作り直していくというのが最初なのではないかと感じます。

創作をしていて悩むのはとても良いことだと思います。
それは
何が正しくて、何が間違っているなんて誰にも判断できないと思います。
(色々な作品を観てそれを思うことは感性を磨く上で非常に大事だと思います。)
お稽古場でダメ出しがあったとしても、単にそれは監督さん(もしくは演出)の創作過程の一つであって、且つブラッシュアップの一つであり、決して正解を導き出すものではないように思います。
なぜならば、もし演技に「正解」があるとするならば、その時に示した演技と同じモノ、寸分狂わず同じものは2度とできないからであります。

細かいことを言うと「不正解」も答えの一部です。つまりは演技というものに、正解も不正解もなく、ましてや完成することなんて、完璧になることなんてないのではないでしょうか。

だからといって、作品を完成させないわけにはいきません。
妥協するわけにもいきません。
お稽古、練習を通じて、何度も何度も塗りなおしていって、はじめてそこで
”日の目が見れる”という判断を通過して世の中に出て行くものだと感じます。

世の中に完璧な芸術などない、だから悩み続けるのではないでしょうか。そして、毎回新たな発見をしていくのが創作だという気がしてならないのです。

このブログでお知らせしている研究成果や方法も単に1例でしかありませんし、けっして答えでも正解でもありません。研究を続けることで別の方法や技法が発見できるかもしれません。

私は「芸術に答えはない」という思いを更につづけ、日夜研究して参ります。
ラベル:芸術 お芝居 演技
posted by 武藤賀洋 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月14日

やっぱ、愛だろ、愛。

10月も半月を過ぎました〜
秋だというのに夏日もあったりと…
気候の変化が激しいですが、皆様どうぞご自愛ください。

さてさて本日の記事はズバリ、『愛』です!
今回は役者さんの勉強をはじめた方向けと言うよりも、私、武藤の演出家としての思想と言ったほうがいいかもしれません。

愛と言っても色々な愛の形があります。
 親子愛
 夫婦愛
 恋愛
 友情
 兄弟愛・・・
などなど・・・

私はお芝居において究極に表現したいことはこの「人間の愛」なのです!


どんな物語にもどんな舞台にも人間の血の通った愛がなければ、人の心は動かないと思っています。
例え、悲劇であろうとも、その裏には人間の愛が絡んでいると思います。
例え、喜劇でも、その裏には人間の愛情がなければ笑いを届けることはできないと考えています。

舞台を作るスタッフ、キャストの全てが見せかけだけの愛しか知らないのであれば、それはやはり、うすっぺらいものになってしまう気がします。

愛には色々な形があるからこそ、人の裏切りや信頼、つながりといった部分を表すことによって、物語がより深くなり、また、どんな物語でも、その登場人物の関係性を突き詰めていき、解釈するとなんらかの愛の形が垣間見えると思うのです。

仏作って魂入れずという言葉がありますが、これは、肝心なことが抜けると何もならないという意味で、一番大切なことを忘れたり、疎かにすることのたとえです。仏像を作っても、魂を入れなければただの木や石にすぎないといことからの喩えなのですが…
これと同様に、物語から芝居を創っても、肝心の魂、人の心、想い―――愛が入っていなければ何にもならない、見ていただいているお客様に何も届けることが出来ないのではないか、そう思っています。

さて、色々な物語には色々な登場人物が出、それぞれに関係性があり、その根本は愛情につながっていると思うのです。そこには所謂、愛もあれば、愛ゆえの憎しみ、苦しみ、葛藤など…様々なものがあると感がております。この登場人物たちの根本の想いと愛情の表現というものを研究し、挑戦し、私も人として、これからもより多くを学び、薄くない舞台制作に取り組んでいきたいと考えております!
ラベル: 芝居 気持ち 想い
posted by 武藤賀洋 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月30日

まずは肯定しないと・・・はじまるものもはじまりません。

こんばんは!
いよいよ9月もおしまいです〜
早いもので今年もあと三ヶ月となって参りました。
9月もあっという間でございました〜
いよいよ明日から10月です!
私事ですが、10月1日劇団新和座の公演チケットの発売日です♪
実は私、喜劇の方がたのしくて仕方ないのです〜
今回は喜劇を演出しました♪
ご興味有る方は劇団新和座公式サイトを御覧ください♪

さて!
今日のお話は「肯定すること」ということについてお話をしたいと思います。

お友達付き合いや、人間関係、家族関係などで、
人から否定されることほど嫌なことはありませんよね。
「それは違う」
とか
「それは間違っている」
とか…
(その人間間における関係性はこの場合考えないものとします)

お芝居でも、演出や監督さんからダメだしされると嫌な気分がしたりしませんか?
この嫌な気分がしているうちは役作りなんかできないわけです。

何故か。

それは、役者さんが先に
’物語’や’登場人物’や’作品’、’演出’について
否定してしまったからなのです。

もちろん、好きで否定したわけではない場合もあるでしょう。
しかしながら、ダメ出しをもらうということは、
どこかしら、そのお芝居を通じて、演出や監督が思っている事と違うこと
はたまた、作品の内容とは食い違った事をしているわけです。
そして、「役」ではなく「役者」としての部分で考え行動している場合もあります。

このブログでも何回か話題に出しましたが、役作りを行う上でもっとも最初にすることは
『役を好きになる。』
ということだと考えます。
これは、単純なことのように思いますが、これがなかなかどうしてできるものでは無い時があります。

もし、自分のキャラクターに合わない役が来てしまったら・・・
もし、自分が嫌いなタイプの役が来てしまったら・・・
もし、自分がやったことのない役が来てしまったら・・・
もし・・・

こうした場合、役を否定して考えてしまうことがあります。
「自分だったらこうしないな」
とか
「自分だったらこうは言わないな」
とか・・・

作品に向かい合う上で、ある種の冷静さは必要ですが、役者個人をして
「自分だったら」
ということをお芝居に出してしまったら、
作品に失礼だと思うのです。

物語も登場人物をまずは肯定し、好きにならなければ役作りは始まらない、そう考えております。
posted by 武藤賀洋 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月23日

張る。テンションを思い切り張る。

シルバーウィークというものがあるそうですね〜
数年前から出来た言葉だそうですが…曜日感覚がずれているせいか、ゴールデンウィークのようにはピン!ときません。
このシルバーウィーク、皆様はどうお過ごしでしょうか?
遊びに勉強にお仕事に…ちょっと涼しくなってきましたので活動が活発になりますね♪
お芝居を勉強されている皆さんは是非、博物館や美術館、動物園や水族館などなど、『生』で見て空気に触れてみたら如何でしょうか?!

さてさて、今日のお話は
『テンション』
ということに触れてみたいと思います。

このブログでも何度かお話させていただいておりますが、
私はどんなお芝居でも
テンションを最高まで高めておく
事が必要だと考えています。
私のお稽古場では、”テンションを張り上げる”と表現しております。

そもそもテンションとはどういう意味なのでしょうか。

辞書(三省堂 大辞林 )で意味を調べると、
テンション 【tension】
 1 緊張。不安。
 2 物理学で、張力(ちようりよく)。
 3(主に若者語で)気分の盛り上がりのこと。

と出ております。
昨今では主に3の意味で良く使われている事が多いですね。
例えば
「このシーンはテンション上がるシーンだから!」
とか
「ここの泣く所はテンション下げて行こう!」
などとよく耳にします。

しかしながら、私は、お芝居に関して言えば、悲しいシーンだろうと怒っているシーンだろうと喜んでいるシーンだろうと常に
テンションは張り上げておく(最高値まであげておく)
必要があるのだと思います。

私はこう考えています。
役者さんにとって、テンションとは、「気持ちの変化をコントロールするための緊張(状態)」であり、例えば、大泣きするシーン、悲しいシーンこそ、テンションを目一杯あげなければ、涙は出ないと思っています。何故ならば、泣く、涙を流すという行為はとてもパワーのいるものだからです。こういうお芝居の場合、”気持ちは”沈み、悲しいかもしれませんが、(所謂気分の盛り上がりと言った意味で)テンションが落ちていたら、お芝居を見て頂くお客様に届かないのではないでしょうか。”泣く”事も大事ですが、”泣く表現”を見せることが根本にあるわけですから、緊張を高め、テンションを張り上げて望むべきだと考えています。
と同時に実際に泣いた後、何故泣いたかなど考えていると、「悲し」かったり「悔し」かったりするわけです。これを感情に出すことは例え気持ちが落ち込んでいたとしてもものすごいパワーを消費するはずで、泣き終わった後は妙に疲れてはいないでしょうか?!

私の稽古場では常に舞台上、周りに目を配り、様々なことに対応できるように緊張する、いわば、何に対しても反応できる状態にしましょう、という意味で使用しています。緊張の状態といっても、身体が硬くなっては意味がありません。気持ちも身体もリラックスし、同時に適度に引き締めることが必要なのだと思います。自分自身でそのバランス感覚を身につける事も非常に大事だと思います。このあたりのコントロールは当然必要になってきますし、気持ちのコントロールと同時に行うことが肝要だと考えています。
posted by 武藤賀洋 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月09日

主役とか脇役とか考えた時点で・・・

こちらの記事でご案内もしましたが、YouTubeに音声コンテンツを載せましたのでお時間ある時に聞いていただけると嬉しいです!
このブログでも何度もいっている通り、鍛錬を怠ると…ああいうおしゃべりになってしまうという、反面教師的な私のおしゃべりですが、お迎えした俳優さんお二人のおしゃべりは実のあるものですので是非是非、お聞きください♪

さてさて、今日の話題は
『主役・脇役』
についてです!

私は常々、物語において、『主役も脇役もない』と考えています。物語において、誰が主役か脇役かを決めることができるのは唯一お客様か作者のみだと考えているからです。

物語の中で所謂主役というのはどういう役どころでしょうか?
せりふが多いものをイメージされかとと思います。
もしくは登場時間が長い人物でしょうか。

・・・。

私は台詞の長さや、登場時間のみで主役脇役とわけることはできないと考えています。
なぜなら、舞台でしゃべらなくても、その人物のことを周りの登場人物が多くしゃべっていたとしたらどうでしょう…台詞の多さは多いけれども、物語の中心にいるのはやっぱり”しゃべられた”側だと思うのです。(ちょっと話はずれてしまいますが、ゴルゴ13なんかそうですよね。主人公はあまりしゃべりませんが、主人公の凄さはまわりの人物がしゃべりますし、それでも物語の中心はデューク東郷(自称)なわけです。)

なにが言いたいかというと、台詞の多い少ないは単にその物語の中の事象に対するものでしかなく、登場人物は常に、登場人物中の主役であることが大原則である、つまり、その登場人物一人、役を振り当てられたその役が生きる上では主役はその役であると考えているのです。


俳優さん個人が台本をもらい、台詞の多い、少ないで主役、脇役を自分の中で決めるのは良いと思いますが、しかし、舞台を創る以上、誰が主で誰が脇などという序列をお稽古場に持ち込んではいけないと考えています。何故ならば、どの人物をどのように配置し大げさに言えば目立たせるかというのは、役者さんの仕事ではないからです。これは監督だったり演出家の仕事であるわけです。

役者さんの仕事はその役の人生(動物、無機物の場合もあると思いますが・・・)を―――実際に生きていると同じように―――精一杯『舞台上で生き』なければいけないと思います。そこに”他の主役は存在”しないですし、できるわけがないと思っています。
舞台では各登場人物は自分の生を全うしようとしていると思うのです。

つまり、どんな役でも、その役のバックボーンを研究し尽くさなければまた、その役と他の役との関係性や背景を研究しなければ見ている方々の心を動かすことは難しいのではないかと考えています。役に向かい合う際、「主役 脇役」という固定観念こそが自分の表現の狭くしているような気も同時にしております。

物語の登場人物には作者の意図するところの主役・脇役の概念があったにせよ、表現する我々は、すべての役が主役であり、すべての役が脇役と捉え、役作りを通じて、役の生を全うさせ、作品を創っていくことが
肝要だと、私はそう考えています。
ラベル:主役 脇役 物語
posted by 武藤賀洋 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月02日

自分を見つめる、把握する、動かす

9月になりました!
早いものでもう、9月です!!
なんという早さでしょう〜 秋です、秋。
当然のことながらまだ残暑は残っていますが、もう秋です。
芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋…皆さんはどんな秋でしょうか〜
私は芸術の秋と行きたいところですが、食欲の秋となりそうです〜

さて、今日の話題ですが、
『自分を見つめる、把握する、動かす』
です。


お芝居をする上において自分を知らなれければお話にならないと考えています。
例えば、どれくらいの高さの声が出せ、滑舌ではどこが不得意であり、怒った時はどんな表情をするか…などなど。把握されているでしょうか?
身近で言えば、似合う髪型似合わない髪型、似合う服・似合わない服などなど自分に合う合わないなどある程度ご存知だとは思います。
同時に着たい服と似合う服というのも別だと思うのです。(一部で合致しているかもしれませんが…)

役者さんにとって、自分を知るということはこれは基礎的なものの一つだと考えています。
何故ならば、皆さんにオファーを出すのはは皆さんを客観的に見ている方だからです。
その魅力を皆さん自信が把握できていないとすれば期待通りの仕事ができないと思います。
この魅力というのは外見的なもの、お芝居的なもの、内面的なもの、スキルなどなど色々あると思います。


これらをまず自分で知ることは重要だと思います。

皆さんは自分の顔を鏡で見ることが多いと思います。
自分の顔の好きなところ、嫌いなことろがあるかと思います。自分の顔が嫌いな方はどこがどのように嫌いなのか確かめてみましょう。同時に自分の顔が好きな方はどこが一番すきでしょう?
自分の全身はどうでしょう?好きでしょうか、嫌いでしょうか。

自分の好きなところは人にアピールできますし、嫌いなところは修正しようとするかもしれません。

しかしながらこの好きな点嫌いな点含めて全て自分の個性であります。たとえ嫌いな点が弱点だったとしても、その弱点を知らなければその弱点をコントロールできません。
ですので、個性をしっかり自分で把握し、おさえることがお芝居をする上で非常に必要であります。

と同時に、顔、身体に共通して、どのように動くのか、動かないのかを把握することが必要です。
例えば、怒りの表情はあなたにとってどのように顔の筋肉が動くでしょうか。
鏡を見て研究し、自分で把握し、コントロールできることが役者さんにとってとても大事だと私は考えています。
ラベル: 身体 表情 把握
posted by 武藤賀洋 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月19日

お芝居を止めていいのは…特権かも…

お盆もすぎて…秋が待ち遠しいムトウでございます。
この記事をかいている最中、作業部屋は窓を開けていら〜
ちょいと夜風が気持ち良い関東地方でございます!

このまま秋になってくれないかしら…そう思う暑さ苦手のムトウでございます!

さてさて、今日の話題は―――
”お芝居を止めていいのは…”
ということについて書きたいと思います。

ものすごく乱暴な物言いをすると
「お稽古場でお芝居と止めていいのは演出家や監督だけ」
だと考えています。

昔、ちょっと仕事でかかわった声優さんの卵がお稽古場にて、読み間違えるごとに「ごめんなさい」といって芝居を止めるわけです。その台本が「ごめんなさい」という言葉を許容する物語ならいざ知らず、そうではないなら、そんな邪魔な言葉は言ってほしくないと私は思います。

もっと乱暴な物言いをすれば、お客様は物語の台詞をいちいち知っているわけでもなく、台本をもっているわけでもありません。ですので、どこで間違えたかなんていうのはわからないのです。(もちろん、台本を正解としての話であり、目・耳の肥えたお客様ならお気づきになることもありますが・・・)芝居をとめることで気持ちの流れまで止まってしまっては台無しです。お稽古場はお稽古をする場所だと思うのです。例え自分が間違えた!と思っても他の共演者はまだお稽古をしているわけですから、自分で止めないようにしたいものです。

自分が”止められた”側だったらどうでしょう…
せっかく気分も乗っていて、台詞もスラスラ出てくるような良い形でのお稽古の最中…わけのわからないタイミングでぷっつり切られたら…止められたら…出てくるのはため息ばかりかもしれませんね。

物言いや台詞に固執するとそのようなことが往々にしてあると思います。お稽古で気持ちの流れを掴めば、あとでどんな制約が出てこようと―――物言いや段取りの制限に左右されること無く―――役を創っていけると考えています。

お芝居は生ものですし、人間がやることですから、台本という確固たるよりどころを十二分に理解して、気持ちの流れを捉え、練習で反復し、その役と向かいあい、次のお稽古に向かう。お稽古で必要な事だと私は考えています。
posted by 武藤賀洋 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月12日

演技ができない

暑い日が続きます…皆様、熱中症対策は万全でしょうか?
寝苦しい夜も続きます。
是非、皆様ご自愛ください。

さてさて、本日のタイトル「演技ができない」ですが…
皆様はこんなタイトルのように感じたこと、思ったことはありませんでしょうか。

役者をやっている方なら誰しも1度は思ったことや感じたことがあるかもしれません。

演出や監督にいろいろダメだしを受けた時、
あまりにも自分の性格・特徴とかけ離れた役の時、
役が難しく感じた時…

などなど色々あると思うのです。

こうした感じを持つ時共通して言えるのが”説得力を持っていない”といことなのです。
例えば、何故、ダメだしをたくさんもらうのか…無論お芝居をより洗練する為、作品をブラッシュアップするためなのですが、演出や監督が”納得”していないからダメだしが出るわけです。つまり役者さんの説得する何かが足りないということができるのではないでしょうか。

役者さんとしてお芝居をする以上、その役をお客様に納得して頂くための『説得力』、もちろん技術的にも内面的にもこの力が必要だと私は考えています。
posted by 武藤賀洋 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月08日

どうして伝わらないんだろう?

いやぁ〜夏至も過ぎ、七夕も過ぎ、関東ではそろそろ梅雨明けかなぁ〜という時期になってまりました!
とっても暑いです。暑いというと余計暑くなると言いますが、それでも言ってしまいたいと思います。
暑いです。

さてさて、本日の記事なのですが…
このブログを読んでいただいている方の中にはお芝居を始められたばかりの方や研鑽中の方もいらっしゃると思います。
レッスンやお稽古、練習中の中で
「いやぁ〜どうして伝わらないんだろう?」
って感じる事がありませんか?!
お芝居については自分の思っている事や、考えが相手役や先生、演出家、監督、共演者に伝わらないことってあると思います。
今日はこの事について考えたいと思います。

何故伝わらないか―――。
それは同じ脳ではありませんし、同じ経験をしていないから自分が思い描いた事が完全に伝わると言うことはない、と考えています。

しかしながら、お芝居をする上ではこうは言ってられません。

では、どうしたら良いか。

まず、お芝居の場合ですが、これはまず自分のイメージが詳細に出来ていないとなかなかお客様に伝えることっていうほは難しいと思います。つまり、台本をよく読み込み、理解・解釈し役作りをする上で詳細にイメージする。この事が肝要だと思います。これが第一歩であると同時に伝えるという行為の基盤部分だと思います。

次に共演者同士の話合いやスタッフとの話合いで”伝わりやすく”するのは、語彙力とここでもやはり想像力だと思います。
語彙はこれは多いほうが良いですね。色々な台本や物語で様々な言葉に出会うと思います。その言語、語彙を理解することはその言語(日本語)を操る上で非常に有益だと思いますし、色々なおしゃべりに対して厚みがでてくると思います。
ちょっと本題とは離れますが…英語を母国語とする外国人の方と会話する場合、仮令、文法がある程度わからなくても、単語をたくさん知っていればなんとか通じたりもします。
次に想像力ですが、アルバイトなどでもそうだと思いますが、誰かと話していて、その人の立場で自分の話を聞いてみたとする…すると色々と欠けている情報があるかもしれません。
この欠けている情報…相手からすると”こいつは何を言っているのかわからん”…という部分を埋める事が大切だと思います。そこには相手の立場に立つ想像力が必要不可欠だと考えています。

どうして伝わらないか…
もともと同じ脳や考え方、まったく同じ経験をしている人は世の中にいないと思います。
ですので、自分が仮令一生懸命しゃべっていたとしても相手伝わる事って実はほんの一部なわけです。
そうした一部を更に増やすには想像力を広げて、相手が「?」と思っているであろう情報を付加してくことが大切だと思います。
それにははじめのうちは何回も話をする必要があるかもしれませんし、相手によっては何回も聞いてもらう必要があるかもしれません。
そして、お芝居をしていく上ではお客様にダイレクトに伝えなければいけません。
ですので、想像力はもちろん、伝えるための語彙、技術を同時に研鑽していく必要があります。
それには色々と見、聞き、吸収していくことが肝要だと考えています。
ラベル:言語 言葉 伝達
posted by 武藤賀洋 at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月24日

気を抜かない、終わりが大事、残心

なんでしょう。この2日間・・・
あっつい、あつい。もう夏が来てしまったかのごとくの暑さですね。
今年は節電の夏でもありますが、智慧を出し合ってこの暑さを乗り切りたいものです。


さて、今日は『残心』ということについて書きたいと思います。
武道や茶道をやった事がある方は聞いたことがあるかもしれません。

20110624_001.jpgWikipediaによると
『残心(ざんしん)とは日本の武道および芸道において用いられる言葉。残身や残芯と書くこともある。文字通り解釈すると、心が途切れないという意味。意識すること、とくに技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。』
とあります。

この残心、実は私が演出している舞台では常に注意して作り上げていますし、お稽古の中でも常に大事にしております。
物語の最後はもちろん、各役の動作の終わりには残心を残すように考えています。しかし、この残心、字の如く『心を残す』ことも一部だと思っていますので、形ばかりでなく、視線や表情、雰囲気と言った所まで残心を残す事でお客様に色々な感情を訴える事ができるのではないか、そう考えています。

私個人的には剣道をやっていましたので、この残心というものは難しいながらもなんとなくわかるのですが・・・武道をやっていない人にはちょっとわかりづらい部分かもしれません。

しかし、日本に産まれ日本の文化というか伝統というか、こうした心の美というものを表す事が疎かにされてはいけないと考えています。
そうした思いを通じて、「美しい所作」が表現できるようにお稽古場でも常に言っております。また、さらに、Wikipediaによると
『相手のある場合において卑怯でない、驕らない、高ぶらない事や試合う(しあう)相手がある事に感謝する。どんな相手でも相手があって初めて技術の向上が出来ることや相手から自身が学べたり初心に帰る事など、相互扶助であるという認識を常に忘れない心の緊張でもある。相手を尊重する思いやる事でもある。生活の中では、襖や障子を閉め忘れたり乱暴に扱ったり、また技術職の徒弟で後片付けなどを怠ると「残心がない」や「残心が出来ていない」といって躾けとして用いられる言葉でもある。仕舞いを「きちっと」する事でもある。ちなみに「躾け」とは「美しい」所作が「身」につく事を表した和製漢字である。』
とあります。

普段の生活の中からも残心を学び、共演者やスタッフ共々、お互いを尊重しながらお稽古することによって、作品の中に残心を表すことができるのではないか、そう考えております。
また、特殊な場合を覗いてお芝居では相手役がいるわけですから、この残心の考えをもって、台詞、仕草を各人がつないでいき、一つの物語としての心が舞台に残るようにしていかなくてはならない、これが肝要であると考えています。
posted by 武藤賀洋 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月17日

心と身体と技と―――揃わないと…

1週間って最近とみに早く感じると思うようになりました…
1日が48時間くらいあったらいいのに…
そしたら思い切りガンプラ作って、おもいきりDVD見るのに…

さて、今日の話題は『心技体』ということについて書きたいと思います。

お芝居を始めた頃、特に気になってしまうのは物の言い方だったりします。
しかしこれはあくまで物の言い方、聞こえ方であって、そこに心の移り変わり、如何に心が動いたか、ということがないとただの「音」になりかねません。

次に段取りを気にしてしまう事が往々にしてあったりします。しかしこれはあくまで、物語上必要な動作、動きであり、そこにやはり心の移り変わりがないとただの「移動」になってしまいます。

では、どうしたらいいのか。
心と身体と技、バランスよくつくり込む事が必要です。

私は常々、おおまかに考えて2通りのつくり込む方法があると考えています。
一つは台本を手にしてから、心の移り変わり、心の動きを中心に考えていき、物言いや仕草、動作を取り入れ、つくり込む方法。
今一つは、特徴的な物言いや段取りを嫌という程練習し、心の移り変わり、裏付けをしっかりと付けていく方法です。

いずれの方法でもお客様にお見せするために必要な要素、やることは変わりません。どこから行うか、ということだけなのですが…先程も書きましたとおり、『心技体』いずれも疎かにはできません。してしまったら、バランスの悪い役になってしまいます。

基礎練習やお稽古、レッスンでも同じことが言えます。
技は無論、レッスンなどで習得することが多いと思います。しかしその技を自分の身体にしみこませても心が入っていなければ、無用の長物になりかねない、と考えています。しかし、反対に自分の「心」ばかり―――つまりは感性だけを―――鍛えても技がなければお客様に見せるレベルではなくなる。と、同時に技と心を磨くには身体がしっかりしていなければならないと思うのです。

仏作って魂入れず、などという言葉もありますが、心技体、どれがかけても素敵なお芝居にならないと思います。バランスよく心技体を鍛えていくことが肝要だと考えています。

ラベル:
posted by 武藤賀洋 at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

無くて七癖

すっかり夏ですね〜
沖縄地方は梅雨が明けたとか…
もうそこまで夏はやってきているのですね〜〜

さて、今日のテーマは『癖』です。
無くて七癖なんて申します。これはだれでも癖といわれるものは持っており、ないように見える人でも七つぐらいは持っている、というような意味なのですが…
そう、誰でも癖を持っているわけですね。

しゃべるときのしゃべりぐせ、
歩くときの歩くくせ、
歌うときの歌のくせ…
などなど、人には癖がたくさんあるわけです。

誰しも癖があるわけですがが、こと、お芝居に読み癖や読むときの癖、台詞をしゃべる際の癖、これに着目してみましょう。
役から自然にでる仕草、癖であればそんなに目立つものではありませんが、役者さん自身の癖が突出してしまったら、それはもう、役とは言えません。

レッスンやお稽古で指摘されること、ありませんか?
アクセントも一つの癖かもしれません。

これは、個別には矯正しにくいもので、学校や養成所、ワークショップなど、先生や師匠に指摘され、矯正していくのが早道です。ですが、これには必要なものがあります。
違いがわかる耳と目、です。

例えばアクセントについては、共通語(標準語)のアクセントと自分の発声のアクセントのどこが異なるかという違いがわからなければ、強制することはなかなかできません。また、偶然にあっている発音でしゃべったからといっても矯正された、とは言えません。

これは耳で違いを理解し、しゃべりにつなげるという訓練が必要です。最近は録音技術も発達して、すぐに自分の発声を録音することができます。その結果を聞き、共通語との違いを聞き較べ発声に活かすのも一つの訓練方法だと思います。


次に、お芝居をしているときの癖です。
例えば、足でリズムを取ってみたり、手がフラフラしていたり、身体や首が揺れていたり・・・・読点や句点ごとに抑揚がつき、非常に単調であったり、リズムがついた読み方であったりと癖は様々です。これには違いがわかる目が必要です。他人の動作仕草を観察し、自分の動きとどこが違うか、どういった筋肉、筋をつかっているのか、または使っていないか観察し、取り入れていくことが必要です。

しかし、ここで気をつけなければいけないことがあります。
いくら違いがわかる目、耳をもったからといって、共通語(標準語)や他人の動きが「正解」であるとは限らないわけです。役によっては方言を使うこともありますし、妙な癖をもつ役もあるでしょう。
大事なのは、これらの所謂癖を自在にあやつれることが重要だと考えます。
冒頭でも述べたように、役者さんの癖としてではなく、役の癖として活かすために、これらを出せたりひっこめたりするようにコントロールできなければいけません。

常に自分の癖を把握し、役によってコントロールできるようにすることが肝要なのだと考えています。
ラベル: 読み癖
posted by 武藤賀洋 at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月27日

求められる事と求める事、自分を知ること

早いもので5月ももう下旬であります。
知らず知らずのうちに半年にさしかかろうなんて…早いものです。
年齢を重ねると時間が早くなる、と先輩に言われた事がありますが、まったくもってそのとおり。
1日があっという間に過ぎて行ってしまいます。
しかしながら、その1日をボーっと過ごすのと何か目的をもって過ごすのとでは大分違うんだなぁ〜
と最近すごく思います〜

さて、今日は「求めることと求められる」というお話、自分を知るべきというお話をしたいと思います。

ここに恥ずかしながら1枚の写真があります。
20110527.jpgこれ、私、武藤賀洋なわけですが…このおっさんが、ビジュアル系バンドのボーカルの役をやる、と言ったらネタ的には面白いかもしれませんが…どうにもこうにも格好がつかないと思うのです。でっぷり肥えているこの顔では似合いません。ですが、とある中学生のお父さん役をやると言ったらそりゃあもう、いい味がでるかもしれませんね。

そういう事なのです。いくら自分がかっこいい役をやりたいと思っていても、周り(お客様や演出、監督など)から求められる事は違う場合が多いのです。

自分が好きだからこれをしたい、こういうことをしたい、こういう役にしたいと思うのは大いに結構ですし、研鑽するべきことだとは思います。しかし、これが仕事ですとそうも言ってられないわけです。仕事、つまりは依頼があるわけですから、その依頼について100%以上の出来で応えなければいけないわけです。それは得てして自分が”求めている”ものは少なく”求めれる”事とは違う場合がままあるわけです。

例えば、殺陣が得意だからと言って、企画にも演出意図にもない動き、アクションを入れてしまったら、そりゃあ作品が壊れてしまいます。自分が出来るからと言って必ずしも求められているとは限らないのです。

お芝居を勉強しているとこの「求められている事」に悩む場合があります。
この悩みを解決するにはどうしたらいいか…それは自分を知ることなのです。
もちろん、自分自身の事は自分がよく知っているわけですが、『他人から見た自分』というのは不明な部分が多いこともまた事実です。
外面―――自分の姿形、身長、重さ、顔のつくり、声、表情などなど―――はもちろん、自分の内面も客観的に見て、自分を深く知る事が大事なわけです。
こうすることで、現場で自分が何を求めれているのか、何をなすべきなのかはおのずと分かってきます。この客観性を疎かにすると自分の経験や凝り固まったイメージばかりに惑わされて、監督さんや演出、果ては共演者や他のスタッフにまで違和感を覚えられてしまいます。

求めていることと出来ることと求められている事は違う―――これを十二分に認識し、自分を知ることは役者修行にとってとても大事な事だと考えています。
posted by 武藤賀洋 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月22日

何故イメージすることは大切か

こんばんは!
だんだん春の陽気かとおもいきや・・・週のはじめは冬かとおもうくらい寒かったり・・・
ここ二日間くらいは暖かな陽気だったり・・・
季節の変わり目が激しいですが、皆様、是非、ご自愛ください。

さて、今日は「何故イメージすることは大切か」ということについて書きたいと思います。
このブログでも何度も書いておりますが、イメージ、想像することはお芝居の第一歩であり、常に必要なことであると私は考えています。

では、何故”何故イメージすることは大切”なのでしょうか。

結論から先に書けば、
『イメージしないと動けない』
からです。

人は面白いもので、イメージした場合としない場合とでは同じ行動をしたとしても、結果が大幅に違ってくる場合が多いと思うのです。

例えば・・・そうですね、、、ラブレターを書くことにしたとします。
その際、相手のことを考えながら書くのとそうでないのとでは、出来上がった文章はまるで違うと思うのです。文章的に完璧に近いものだったとしても、相手の事をイメージしなかった場合・・・相手に気持ちは通じない事が多いと思うのです。

お芝居では往々にしてそうだと思うのですが・・・
お客様や相手役、スタッフなどなどの心が動かないと舞台というものは成立しないと思います。
その他者が心を動かす為にはまず自分のイメージが―――つまり”こうなればいい”という結果に対してのイメージ―――がないとなかなかうまくいきません。

よく初心者の方に見受けられる光景ですが、
「こう動き(しゃべりたい)からこう動いて(しゃべって)」と段取りを打合せしてしまう事があります。これには効果をよく見定めて行わないと、ただの段取りになってしまって、お客様の心を動かしません。役者さん同士の話し合いでも相手を刺激し、自分のイメージを広げ相手に伝えることができたら有効ですが、そうでなければ、ただの自己中心的な行動になってしまいます。

相手役をはじめお客様の心を動かすことは容易ではありません。ですので、様々なイメージを広げていかないと、視野狭窄では難しいと考えます。

つまり、役に対しても作品に対しても自分の詳細なイメージを持つことはもちろん、相手のイメージも柔軟に取り入れていかなければいけません。

ちょっと話がそれましたが、イメージを詳細にしないと、結果動けないと思うのです。
それはみなさんにも経験があるかもしれませんが、
人に言われてやることよりも、自分から進んでやることの方が成果が大きく違うと思うのです。

これはお芝居の役についてもそうだと思います。
役について詳細なイメージをふくらせていかないと、結果、「自分の知らない役の一面」にぶち当たり、その事についてはただ、言わされ、ただ、動かされるだけになってしまうのです。
そのような芝居をしてしまったら、お客様の心はうごきません。

別の機会に書きますが、役については常に肯定的なイメージをもち、そのイメージを他人の役との交わりをも考えながらお芝居に望まなければ、自分の与り知らぬ妙な役になってしまいます。と同時に作品をつくるわけですから監督や演出家のイメージ以上のものを創造しなければ、(自分のイメージに固執しすぎて、オーダーに応えられないなど論外ですが・・・)折角の作品も役も台無しです。

まずはイメージを、役のことを思いながら役作りをしていくことが肝要、そう考えています。
posted by 武藤賀洋 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月15日

自分の役と相手の役と…

皆様、こんばんは!
すっかり陽気も春めいてきて、今日など関東では初夏の陽気だったとか…
先の震災の影響で余震なども続いておりますが、
この良い陽気にさらに元気だけは倍増で進んで参りたいと思います!

さて、本日は台本についてです。
こと台本の読み方とでもいいましょうか、
お芝居をはじめたばかりの方々、初心者の方に是非実践していただきたい、
『自分の役の箇所に印をつけない』
という事について書きたいと思います。

良く台本をもらって、自分の役の箇所の台詞に印をつけている方を見受けます。
これはあくまで私の私見ですが、初心者のうちは、これはやらない方がいいのではないかと考えています。

何故ならば、台詞のみがその役に与えられたものではないからです。他の人が喋っている時、他の人が動いている時も何かをしているからです。そこに生きている、存在しているわけですから、何かを必ずしているわけです。
台詞に印を付けるのなら、ト書きにもつけるべきだと思いますし、他人の台詞/仕草の時にも何かをしているわけですから、その部分にも何かしらの印をつけないと・・・”自分の箇所”へのマークであれば辻褄が合わなくなります。

最初から目印となるようなものをつけてしまうと…台本を読む際にそこにしか目が行かなくなる恐れがでてきてしますわけです。

そんなことないよ!大丈夫だよ!!
と思っても、人間とは不思議なもので、ついついその目立つ箇所だけに意識が行ってしまうのです。

ですので、はじめたばかりの時は、割り当てられた部分のみならず、全ての物語、初めから終わりまで目を通し、読み、自分の役を深めていくことが大事だと思います。


蛇足ですが、プロで活躍している諸先輩方の多くは配役後でも物語全てを読まれて、役作りに取り組んでいるそうです。自分の役のみならず、作品の中の自分の役、自分の役を通した他人の役、他人の役を通じた自分の役を良く理解し、噛み砕き、投影していくことがお芝居に深みを持たせることだと、私は思います。
posted by 武藤賀洋 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月08日

作品の根底に流れているもの・・・

いつも武藤賀洋演出ノートBlogをご覧頂き、応援頂きましてありがとうございます。

平成23年3月11日に発生しました「東日本大震災」により被災された皆様には、謹んで心よりお見舞い申し上げます。

私は私のできることを通じて、被災者の皆さんに1日も早く、笑顔が戻るように、希望の光を胸に、一歩一歩進んで参りたいと思います。
また、劇団新和座の公演に関しましても皆様が安全/安心にご覧いただけるように準備をしております。今しばらくお待ちください。

さて、一定期間、休止しておりましたブログは本日から再開いたします。


さて、本日は、この間も書いたかもしれませんが、「作品の根底にながれるもの」というテーマです。

私が演出する作品には常に『愛』というテーマをもって取り組んでいます。
世の中の色々な作品には『笑い』だったり『人間模様』だったり『恋愛』だったり『人間讃歌』だったりと・・・様々なテーマがあるかと思います。
そのテーマーーー武藤作品は必ず『愛』というテーマを持って作品に取り組むようにしております。
それは、兄弟愛かもしれませんし、師弟愛かもしれませんし、親子の愛かもしれません。もちろん、男と女の間の愛というのもあるでしょう。

私は作品に登場する人物は必ず、なにかしらの「愛情」をもっているからこそ、存在しているのだと考えます。それが例え、自己愛だとしても利己愛だとしても利他愛だとしても。。。
だからこそ、登場人物は感情を剥き出しにし、面白みのあるキャラクターになっているのではないかと考えています。

そして、作品全体を通じてもそうした愛の行動、言動をもって、お客様になんらかの愛を感じ取っていただけるように作っております!

今年度の新和座、武藤作品、是非、ご期待ください!
ラベル: 作品 主題 命題
posted by 武藤賀洋 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月25日

わけがわからない動作しちゃだみですよ〜

今日は暖かったですね〜〜
なんでも4月並みの陽気だったとか・・・
今日は上着もちょいと薄いのを着てでかけました!
昼間、風は強かったですが、心地よかったです〜〜

夜になるとまた、冷えてきました・・・
寒暖の差が激しいと、体調管理が難しいですよね〜〜
インフルエンザにかかってしまって苦しんでいる方もいるようです。
早く治りますように!!

そう言えばこの暖かさで、かえるをみました!
寒いからまだ、でてきちゃだみだよ。。。

さてさて、今日は『理由』ということについて書きたいと思います。

私は常々、
「役のしぐさや科白を含めた行動にはかならず理由と根拠は必ずある」
と考えています。


私たちが普段生活していて、なにげなく行っている行動も”必要”にかられて行動しているのではないでしょうか。
それが理由であり、根拠であるわけです。

習慣となっているから、というのも理由の一つではあります。
例えば歯磨き。
歯磨きをすれば、歯が強くなり、歯の病気も防ぐ事ができますよね、衛生的にも良い事です。
しかし、これを毎日認識しながらやることは少ないと思います。
習慣になっている事も実は根拠と理由があってやっている事だと思うのです。

また、同じ歯磨きでも・・・
「今日はキスしちゃうかも」
というような日の歯磨きはかなり念入りでないですか?
歯を強くするとかよりも、口臭を気にして磨く事が多いのではないでしょうか〜

同じ行動でも理由が違う事がありますよね。

役を研究することは脚本をよく読み込むことが大前提だと思います。
その役の心理、背景を十二分に研究して、科白、(ト書き、ト書き外も含めた)行動というもの一つ一つに理由、根拠を見つけだし、(他の役や時間の異なった場合の)同じ行動でも一つ一つ丁寧にその行動(台詞や仕草)について考え、検証していていくことが大事だとかんがます。また、そうするからこそ、その役に愛着がわくと思うのです。

しかしながら、その理由は「(役者が)やりたいから」ではちょっと不確かになってしまう気がしています。
演出や作品のテーマを噛み砕きつつ、役者同士間、演出役者間などで関係性や理由や根拠について十二分に、幾度となく、話し合いたいものだと私は考えています。

是非、役を研究する際には、その台詞/仕草の一つ一つについて理由を深く探してみてください。
posted by 武藤賀洋 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。