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2011年02月11日

見方、感じ方、使い方、伝え方

私は、常々、
「人と脳を交換できたら・・・想像を絶する世界が待っているのだろう・・・」
と思います。

一般的に常識と言われるものが存在しても、一人一人違うモノの見方、感じ方、使い方、伝え方があると思うのです。



この間、のお稽古でこんな事を聞いてみました。
「役作りってあなたにとって?」
と聞いてみました。

皆さんはどのように答えるでしょうか・・・
役作りとは・・・役になるための準備、と答えるでしょうか。
役作りとは・・・外見や内面をそのキャラクターに近づける事、と答えるでしょうか・・・
役作りとは・・・楽しい。と答えるでしょうか・・・

どれもこれも正解だと思います。
役作りの意味や捉え方を答えるのも一つ、自分の感じ方を答えるのも一つなのです。
どれも間違っていませんが、これを他人に伝える事って本当に難しい事があります。
これを正確に、自分の感じたままを正確に伝えようとすると本当に言葉や方法に困ります。

同時に自分と違うモノの見方、感じ方、使い方、伝え方が間違っていると判断するのは良くない事だと思うのです。
自分にはあわない、と感じる事は勝手です。
がどこにも正解なんてないのですから、一概に間違っているとは言えないと考えます。
そして、自分にはないモノの見方、感じ方、使い方、伝え方を感じるからこそ、自分の感性は広がり磨かれて行くのだと私は思っています。

周りの人と話す時、意見を交換する時に、この感じ方や見方を意識しながら行うと色々と気付く事があるかもしれません。

台本を読んでも、10人いれば10通りのストーリーが出来上がります。
それはどれも間違っていませんし、どれも正しいものではありません。
そして、これを作り上げる事の根本が役者と演出者の役割であり、作り方は様々ですが、これはまた別の時に書こうと思います〜
この人それぞれのストーリーを批判する事無く、共有する部分があってこそ、役作り作業がさらに深まると考えています。

タグ:方法 他人 言葉
posted by 武藤賀洋 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月21日

歳をきかれます?

今回の記事はは役作りする中で『年齢』についてお話したいと思います。
役に向かい合うためにはイメージすること、想像する事がとても大事だと私は考えていますが、
その中でも『年齢』というキーワードはとても大事なものになってきます。

結論から言いますと、『年齢』というものは、役づくりにおいてとても大事な要素でありますが、
それにしばられてもいけない、そう考えています。

例えば、とある台本を読みつつ、その役の年齢を参考にすることはとっかかりにもなりますし、
他の出演者やスタッフと認識をあわせるのにとても便利な数値であります。
しかし、この年齢というものがちょっとクセモノだと私は考えています。

どういう事かと言うと、
『年齢というある種の指標は、参考にはなるけれども、色々な側面で共有できない』
のではないか、と考えています。

これは自分の実年齢と違う年齢設定が台本上に書いてあったとしても、それは、読んだ人間によってイメージする印象が著しく違うと考えるからです。

例えば、17歳の役があるというときに、
ある人は
 ・やんちゃな時期だね〜
と思ったり、
またある人は
 ・受験勉強をたくさんして、きっと一生の内で一番勉強した時期
と捉えるかもしれません。
無論、その台本にかいてある情報に即したイメージはできますが。
また、もう一方で例えば、'声'についても…
”17歳”をイメージした時の声というのは人それぞれ違うと思うのです。
また、17歳を若いと感じるか、躍動的な年齢と感じるか、17年間生きた人間と考えるかによって変わってくると思います。


実際に具体的に年齢という指標はとても解り易いものだと思います。
しかし、演出家を含めて、この値に対して、合致するイメージが必ずあるかと考えるとなんとも抽象的な感じになってしまいます。


私の考えですが、こうした場合、他の登場人物との比較をすることによって、より具現化するのではないでしょうか。
実年齢もそうですが、台本の舞台となる中心的話題でも比較の対象になると思います。例えば、とある物語の舞台が『被服業』だっとしたら…

AさんはBさんよりも若いだろうけども、被服にかんしてはBさんよりも経験豊富

などなどとイメージできると思います。


こうした詳細なイメージを組み合わせることによって、年齢―――その役の若さが捉えることができると思います。
同時に、こうした中で、大事だと考えているのが、
『どういった経験をしているのか』
ということです。

その登場人物には必ず背景が存在します。
登場人物が登場するその瞬間までに、他の登場人物、または登場しないけれども、関わったであろう人物とどこで何をしたからこそ、その登場人物の行動になったのか、ということを明確にイメージすることの方が大事だと私は考えています。
posted by 武藤賀洋 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月07日

Easy? No! It's not easy!!

基礎練習というものがあります。
これはお芝居に限らず、どんな仕事でも、スポーツでも、芸事でもあります。

実はと言うと、私、この基礎練習が大っきらいでした。
役者修業時代。
その時の気持ちを今、考えてみると、酷い物です。
「なんとかごまかせないかな」
「走るの嫌だな」
「滑舌も完全には言えないけれども、だいたい言えているからいいか」
・・・などなど酷い物です。
自分に甘いと言うか・・・

さて、皆さん、”基礎練習”と聞くとどのようなイメージを持ちますか?
「簡単な練習?」
「基礎的な練習?」
(日本語の)イメージとは怖い物で、基礎=簡単ととらわれがちです。
もちろん、これは誰でも練習すれば、ある程度はできる内容が多い訳ですからあながち間違っているわけではありません。

が!
これを簡単な練習と思って疎かにすると、大変なことになります。

基礎練習とはeasyな練習ではなく、basicな練習なわけです。
つまり、文字通り、基礎を成す練習なわけです。
これを怠ると台本練習してみたところで、何にもなりません。
特に芸事は1日サボると3日分後退すると言われています。
一見して基礎的なものこそ、その仕事(お芝居も含め)、その正体であり、綜合そのもののように感じています。


ここで注意をしなければ行けないのが、基礎練習をする目的をきちんと持つということです。
例えばランニング。
アスリートになるわけではないのですから、早さを求めてもあまり意味を成しません。
2〜3時間という公演時間に耐えるう体力がつける目的があれば、適度な練習量が導き出せます。
また、同時に、精神を鍛える目的ならば、ぶっ倒れるまで走るもの目的の一つです。
先ほど「早さ」も出ましたが、役が「如何に速く走れるか」を追求している役であれば、早く走ることも大事だと思います。

つまり、基礎練習は目的を持って、基礎的な(ベーシックな)機能を鍛える、
その鍛える目的をきちんと持てば、上達も早くなると思いますし、なによりも楽しくなるものだと思います。
目的や効果を知らずにただ、やみくもにやっても辛いだけです。

私も今は、楽しみながら、基礎練習を行っています。
しかし、若い時の私に教えてあげたいものです。。。。ベーシックなんだよ、と。
posted by 武藤賀洋 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

抱負

2011年も明けて、もう、七草ですね〜
年末年始、暴飲暴食をした私は・・・七草がゆを本当は食べなければならないと思いますが・・・
朝から脂っこい食事をとってしまいました・・・

さて、さて。
年も明けて、今年の抱負を考えてみました。
『一年の計は元旦にあり』
なんていうことがありますので、元旦には考えていたのですが・・・


20110107_a.jpg

劇団新和座の石井かほるのように毛筆で書きたかったのですが、ブログ用にはこちらでご勘弁ください。


『魂』
つまり今年は何に対しても『魂』を込めるという事を念頭に仕事、生活をして行きたいと思います。
(おいおい、パソコンで書いた画は、、、魂が・・・というのはご愛嬌)

いや、今まで魂込めてやっていなかったわけではないんです。
しかしながら、慣れや、繰り返しなんてやっていると、
 「まぁ、いいかな」
 「このへんでいいかな」
 「これくらいでいいかも」
などなどどうも中途半端な気持ちが出て来て、かないません。
ですので、全ての事、細かい事にまで至まで『魂』を込めて行いたいと思います。

『仏作って魂入れず』ということわざもあります。
このことわざの意味は
"努力して物事を殆ど成し遂げながら、最も肝要な一事が抜け落ちているということ。肝心な一点が抜けていたら、完成したとは言えない。"
ということですが、形ばかり気になって肝心の心や魂が入っていなければ、それは嘘になってしまいます。
ですので、今年は、仕事にも学習にも遊びにも生活にもきっちり『魂』を込めて挑んで行きたいと思います。

卯年、ぴょんぴょん跳ねるウサギの如く、私も劇団新和座も飛躍して参ります。
どうぞ、2011年もよろしくお願いします。
タグ: 卯年 抱負
posted by 武藤賀洋 at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月31日

イメージすることって大切です。

ちょっと間が空いてしまいました。

年末ともなると師走というくらいで、走りまくっていました〜〜
18日の投票祭に来ていただいた皆様、ほんとうにありがとうございました!

さてさて、本日の記事は『イメージすること』について考えてみました。

お芝居をしようと思ったら、イメージすることは切っても切り離せない事なのです。
私が役者修行をしていた時に先生から「役者の仕事は想像して創造する、これに尽きる」と教えていただいたものです。

さて、この想像、簡単なようでいて、実は安易に考えられないと感じています。

それはですね、”詳細まで想像する”ということなのです。
昨今は、メディアの発達により、映像化や音声化がもの凄く早く、同時に詳細に現れるようになってきて、とても便利であります。
しかし、これは一長一短があると私は考えています。
つまり、そういった作品を楽しむ分には何も考えずに(ちょっと語弊がありますが・・・)楽しめば良いのですが、これらを創る側に立ってみると・・・色々考え、想像しなくてはいけません。

見ている(聞いている)側、つまりお客様は何も考えずとも、提供されたものでその世界観が楽しめなければなりません。つまり、それだけ創る側になれば、詳細なところまでイメージしなければまず不可能な事な訳です。

例えば、ある役を演じようと思ったら・・・
 ・年齢
 ・家族構成
 ・その時の(場面の)場所
 ・時間
 ・季節
 ・その人物の生理状況(寒いのか、健康なのか、空腹なのか・・・などなど)
 ・その人物の背景(履歴でしょうか。)
などなどを詳細に、事細かに想像しなくてはなりません。これが仮令、台本に書いてなくても、作品中に出なくても用意しておかなければ、その役に深みは出てこないと思います。

私も覚えがありますが、「先生や周りの目」というものをこと、新人さんの時には想像に入れてはいけません。邪魔になるだけです。無論、特に舞台などでは、お客様の反応という部分をある種冷静に捉える事は大事なのですが、それは役について、十分に練った(想像した)後に自然と反応できるようになって行くものだと考えています。
つまり、役に対して真摯に向かい合うのでなく、ある種の”自分”という邪魔者が想像の中に入ってしまうと、余計に周りから見ても実に中途半端なモノになってしまう危険性があります。

話を元にもどして、モノをつくる、役を創るという事の根本は真摯に向かい合い、想像する事が第一歩であり、一番重要だと私は考えています。

posted by 武藤賀洋 at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月17日

冷静さとアツさと情熱と冷徹さと。

いよいよ明日に迫りました!
素敵なクリスマスプレゼントもあたる!
劇団新和座の投票祭!!
不肖武藤も役者をプチ復活して出演します〜
ご興味ある方は是非、ご予約くださいね☆
当日券もあるそうです♪
詳細はコチラから(PC/ケータイ共通)

さて、今日は「冷静さ」ということについて考えてみました。

特に舞台の公演、本番についてですが、当然の事ながら、役に集中し、舞台を構築していかなければなりません。
昔、私の師匠に言われた事ですが・・・
「俳優はある種、冷静さをもって舞台に立たなければならない」
と言われたことがあります。

つまりは、役に集中するのはもちろんの事、役者として、その時、その場の雰囲気、相手役の立ち居振る舞い、鼓動、自分の調子をきちんと把握して、と同時に、自分の一挙手一投足、IMG_8574.jpg他の出演者の動きに対してのお客様の反応を肌で感じ、瞬時に適応、反応できなくてはいけないのではないか、という考えです。とっても難しいですが、これはお客様に楽しんで頂くために磨かないといけない能力だと私は考えています。約束段取りや自分自身のイメージに固執してしまったりするとなかなか難しいことではあります。役というものに集中しつつも、常に冷静に場の雰囲気を感じ取れる事、その感じ取ったものに対して、対処、適応していくことが自分の表現を、思った事を、云いたい事を、よりお客様に伝える事ができる近道ではないか、そう考えています。


台本どおり、練習やお稽古でつんだ研鑽通りにやればいいのでは?
そんな疑問も聞こえてきそうです。
しかしながら、最大のポイントは「お客様はしらない」という事なのです。もっと言えば、お客様は台本を持ちながらお芝居を見ている訳ではない、と言う事なのです。
つまり、台本には書いてない事が起こり得たり、テレビや収録と違って、お客様の反応に応じてその時その時で対処をして行かないと、カチカチの悪い意味での緊張した空間になってしまうと考えています。無論、練習やお稽古で研鑽を積み、こうした事を考慮しつつお客様に空間を提供する為に訓練してく他ないと考えています。


お稽古場でも常に、自分が役として出ていない時は、脚本から目を離し、そこで行われている空間を感じ、自分が役として何かをしている時は、他の役、観ている人の視線、気持ち、反応を肌で感じ取ることで、かつ、その感じ取った事を次のお稽古で反映し、繰り返してゆく事で、”冷静である”ことの訓練になるのでは、と私は考えています。
posted by 武藤賀洋 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月10日

距離

今回の記事は「距離」。

お芝居をしているどうしても”距離”というものと切っても切り離せないと考えます。
これは他の出演者の役との物理的距離感および論理的な距離感の二つに分けられると思います。

例えば舞台上、演出によって舞台の上下に分かれて立つ恋人同士。
しかり台詞はとっても甘いささやく会話。
これを(技術的な声の響かせ方などは別にして)相手との本当の距離分の声で演じたら・・・
二人の間柄は台無しです。

20101210_b.jpgつまりこう言う事なのです。
役者さんは実際の距離(物理的な距離)と心の距離(論理的な距離)の二つをきちんと把握してお芝居をしなければならい、
と私は考えています。

特に難しいのが論理的な距離です。
これがなかなか難しい。
なぜかと言えば、台本上に書いてない事が相手役によって変わってくる訳ですから・・・
相手の表情や物の言い方、仕草をしっかり見て聞かなければ、この論理的な距離を伸ばす事も縮める事もできません。

アテレコの世界でもそうだと思います。
物理的にマイクの位置が離れていても恋人同士の臨場感を演じなければいけない局面は多々あると思います。
反対に隣のマイクでおしゃべりしているのに、国際電話で会話しているようなシーンもあるでしょう。

つまり、その場所の制約(演出や収録の都合、劇場などの都合)を経て、更に役同士のその時その時の距離や方向をきちんと把握しなければ、作品が台無しになってしまいます。
専ら、物理的な距離だけに目が行きがちですが、それだけでは足りません。足り無いどころか、そればかりに目が行ってしまうと自分勝手な誰も相手にしない、他の人が出ているのにまるで一人でやっているようになってしまう訳です。

同時に相手役ばかりでなく、台本上、いっさい接点の無い(台詞をかわさない)役とも論理的な距離はかならず存在しますし、舞台で言うなら装置、小道具、衣装などなどに対しても論理的な距離および物理的な距離をきちんと把握するべきだと私は考えています。
タグ:演劇 距離 方向
posted by 武藤賀洋 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月26日

目は口ほどにモノを言う。

目は口ほどに物を言う。

と言う言葉があります。これはお芝居をする上でもとても大事な事だと考えています。


実生活でもそうだと思うのですが、いくら口では良い事を言っていても、目が泳いでいたり、焦点があってなかったり、うつむいて話をしていたら・・・その言っている事がどんなに素晴らしく、素敵な事だったとしても、説得力にかけるのです。

先日、こんな人がいました。
声も大きく、声も良く、動きもいいのに・・・台詞を間違える度に「目を閉じてしまう」
はたまた、
声も大きく、台詞回しもいいのに・・・恥ずかしいのか・・・視線を舞台外にだけ向けて、相手役を見ていない。
さらには、
声が良く、相手をきちんとみているのですが・・・目の焦点が定まっていない・・・

実際の生活の中でこんな人が居たら・・・ちょっと信用がおけないというか、げんなりしちゃいますよね。。。

こういうことがどうして起きるのか・・・
原因は千差万別だと思うのですが、「テキスト(台本)だけを追っている」とこうなってしまいがちだと思うのです。

言うまでもなく、台本はその作品の拠り所です。だから無視することはできません。20101126_a.jpgもちろん、お芝居をしている時には台本の事、役の事以外が頭の中にあってはいけません。ここで大事なのが、他の役の役者さんが自分と同じ事を考えているとは限らない、ということなのです。ですので、頭の中には役の事、台本の事はもちろんなのですが、視覚、聴覚、嗅覚、触覚・・・様々な感覚を研ぎ澄ませて、ある種冷静であることが必要なのです。こうした感覚が常に研ぎ澄まされていないと、不測の事態・・・もし、なんらかの原因で予定と違う事が起こったら・・・対処できるようにする「しろ」あるいは余裕、冷静さがないと、単にテキストを追っているだけの物になりかねません。こうした余裕、冷静さをきちんと盛り込んで何回も繰り返し練習し、お稽古にて更に新しいものを感じる。日々進化、変化を成し遂げて行かなければ、そこまでの出来合いの物になりかねません。ちょっと話が逸れましたが、お芝居をしている時には、常に周り、相手の挙動、鼓動、呼吸、全てに気を配り、万が一イメージと違う事や約束と違う事が起きても、自分の役の[目的]を基本にしっかりと向かい合っていれば、その空間にはけして間違っている事や(役者として)かっこわるい事など起こり得ないのです。ことに今回の「目」「視線」ということを気にしつつ、視覚を最大限に使う事によって、様々な情報が入ってきます。その情報を一瞬にして把握し、対応する事がお芝居では大事だと私は考えています。


posted by 武藤賀洋 at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月19日

勝手に台詞をかえちゃダメ!!!

こんばんは!
ここさいきん、めっきり寒くなってきました〜
神奈川の箱根などは雪が降ったとか・・・もう冬ですね〜〜

今年も残す所、1ヶ月。年末に向けて色々なイベントもありますね〜
実は私が演出をつとめる劇団新和座では12月18日(土)にクリスマスプレゼントが当たるイベントを行います!
私、武藤も出演しますので、是非是非、皆様、お越し下さい☆
お一人様500円です!
詳しくは、
PCはこちらを、
ケータイはこちら
ご覧ください♪

さて、今日は、講座で寄せられた生徒さんから、こんな質問がありました。
なぜ、台詞を変えて読んではいけないのですか?

普段、私はワークショップやお稽古、講座の中で「なるべく台詞を変えずに表現してください」と言っています。
(上記の質問では「読んでも」も気にかかるのですが、それは別の機会に・・・)

基本的に私は台詞やト書きを変えることを好みません。
これは、台本を書いてくれている脚本家の先生や物語に対する敬意という意味もあるのですが、お芝居では「役」をつくるものだと考えているところが大きいです。

以前、とある俳優さんが台詞を自分勝手に変えてお芝居していたのですが、これはいただけまん。
何故ならば、言いづらかったり、自分の性格にない、言葉、行動でも、イメージして、創造するのが本筋であり、この俳優さんを何回も見ているお客様なら「なるほど!あの言い回しか!!」と納得するかもしれませんが、初めて見る方には違和感が出てくるかもしれないのです。
どうして違和感が出るかと言えば、脚本家は”登場人物”をイメージしながらお話を書くことが多いと思います。ですので、自分勝手に部分部分の台詞を変えてしまうと、全体としての整合性がとれなくなる訳です。
20101119_b.jpgただ、気持ちが入って台詞が”変わってしまった”場合はこの限りではないでしょう。それは、その役が自然に発した言葉なわけですから、真に迫っている訳です。
自分が言いづらいと感じたり、自分の性格と合わないだったり、単に目立つから!というような気持ちで台詞を変えると「目立つ」かもしれませんが、真に迫らないでしょう。同時にこういう理由で台詞を変えうことはプロの仕事とは言えないと思います。

もちろん、先ほども書きましたが、真剣に演じていて、役と向かい合って、台詞が変わってしまった場合はこれにあたりません。

これを踏まえて、前述の質問に考えを及ぼす時、言えない台詞やできない行動などないと考えています。ですので、全ては練習とお稽古にて、できるまでやるというのが表現者にとってのお仕事なのだと思います。
しかしながら、まま、台詞やト書きを変えることがあるかと思います。
この場合、私が演出をしているのであれば、『意味のない動きや台詞』は入れないことにしています。その該当の箇所だけは意味があるように思えても、そこ以外になんの意味も成さなければ、変える意味がない、もっと言えば変える必要性さえ感じないのです。
表現に答えはないと思います。が、ハナから表現をせずに他の言い回しや、台詞などを考えるよりも、
拠り所である台本を一切変えずに気持ちの変化、役の心理を研究し、役と真剣に向かい合うからこそ、気付きがあり、新たな発見や表現方法に行き着く事になるのだと思います。

単にモノの言い方だったり、台詞の言葉だったりを自分勝手に変えて(無論、こういう練習方法もありますが・・・)お稽古に望むのは好ましくないと考えています。仮令、やりあきたり、不安になったりしても、台詞を踏襲し、その役を舞台で生かす事こそがプロの役者さんのお仕事であり、求められている事だと考えています。経験上の話になってしまいますが、やり込めばやり込むほど、声も台詞も変わって行く物だと思う訳です。無論、そこには役に真剣に向かい合う必要はありますが・・・

posted by 武藤賀洋 at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月12日

お芝居を止めるということ

昔、ちょっと仕事でかかわった声優さんの卵がお稽古場にて。読み間違えるごとに「ごめんなさい」といって芝居を止めるわけです。その台本が「ごめんなさい」という言葉を許容する物語ならいざ知らず、そうではないなら、そんな邪魔な言葉いってほしくないと私は思います。
また、こんな方も居ました。
お稽古中、通し稽古(台本の最初から最後までやるお稽古の事です。)をやっている最中、とある男性の俳優さんが、途中から明らかに気持ちを切ってしまい、気持ちも何もはいっていない、ただ、台詞を追っているだけになってしまっているのです。これは見た目、お芝居を止めていませんが、、、「勝手に芝居を止めた」と判断してしまいます。

何故、お芝居を止める事がダメなことなのか。
それは、
「自分だけのお稽古ではない」
からなのです。

(一人芝居にしろ何にしろ、)スタッフさんが居たり、共演者がいたりします。
自分の勝手な都合でお芝居を止めてしまっては、他の方の迷惑になるわけです。つまり、自分は自分の理由で止めた事をわかりますが、他の人はわからないわけです。そして、他の人は、気持ちを一生懸命入れてお稽古しているのです。

20101112_b.jpg私は劇団でも講座でも言っていますが、
「お稽古は他人のためのお稽古」だと考えています。
同時にこれを実践するには、その場に望む為の練習という準備が必要になってきます。
また、常に自分自身と戦って、他人に対してのお稽古をしているという気持ちがあれば、勝手に止めることなどできうるはずもないのです。仮令、自分が間違えた!と思っても他の人はまだ芝居を続けている訳です。自分で止めるなど愚の骨頂であるわけです。

では、どうして、そういう風にとめてしまうのか。物言いや台詞に固執するとそのようなこと、相手が予想通りに動かない時、自分の台詞が無い時が往々にしてあると思います。これは人間で言えば、死んでしまっている状態だと思うのです。つまり、舞台から勝手に一人でおりてしまって、役が死んでしまった時なのです。
普段の生活で相手が思うように動かないからと言って、相手の動きを指示するでしょうか?
普段の生活の中で自分が言い間違えたからと言って、「ごめんなさい、もう一度今の会話繰り返していい?」などと言うでしょうか。

つまりそういう事なのです。
お稽古している中で自分勝手な都合でお芝居を止めるというのは、相手役やスタッフに対してもの凄く迷惑であるばかりか、ありえないことなのです。

無論、初歩的なミスが起こらないように基礎練習をきちんと毎日、あらゆる時間、一人で行う事は言うまでもありません。
しかし、ミスが起きたからといってお稽古を止めてしまうのは、これはもう、死んでしまったと同じ事なのです。

同時に常に正解を意識して、舞台上で生きる事を怠っていると「自分勝手な理由」がむくむくと頭をもたげるようです。


役者さんが一番してはいけないこと。それは勝手にお芝居を止めてしまう事。
勝手にお芝居を止めると言う事は、、、役を殺している事と同じ事だと私は考えています。
posted by 武藤賀洋 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月05日

耳は大切

今日は投票祭のお稽古をしてきましたが、やはり、お芝居を真剣にやろうとすると、時間がいくらあっても足りません。
今回は私、長谷川奈美さんとチームを組んで浅戸あきらとして、この投票祭に挑みます!!
もちろん、演出は私、武藤が担当します!! あのアメリカはブロードウェイの巨匠ニールサイモンの『名医先生』を原作にした、甘く切ないラブストーリーを展開します!是非、ご期待ください♪


さて、本日は『耳は大切』という事について書いてみたいと思います。
以前にも「アクセントについて」という項目でも触れていますが、耳を鍛えると言う事は役者さんにとって必要不可欠と考えています。

20101105_a.jpgこれは「すべての音は耳から入ってくる」という事につきますが、素晴らしい役者さんになると、とても耳が良い事に驚きます。

役者さんになろうと思ったら、発声練習や滑舌、感情のコントロール、仕草、型と言ったごくごく基本的な練習はもちろんの事、”耳を鍛える”と言う事をしなければいけないと考えています。これは単に、耳がよく聞こえる、ということではなく、”違いのわかる耳”を持つ、という事なのです。

例えば、声優さんやアナウンサー、俳優さんの修行の中で、ほぼ最初にやるのが、発声や(滑舌を含めた)アクセントのトレーニングですが、これは無論、所謂"共通語"をマスターするためのものなのです。しかし、「言えて」おしまいではありません。何故ならば、お芝居の役はすべてが標準語、共通語をしゃべるとは限らないのです。このアクセントの練習で耳をより鍛える事で、”アクセントの違い”がわかるようになり、耳で聞き、きちんと認識する事で初めておしゃべりできるようになるわけです。

ーーー赤ちゃんもそうですよね。耳が発達することで、だんだんとおしゃべりが上手になる。

また、こう言う事もあると思います。自分の好きな声優さんや俳優さんの物の言い方があったとします。それを練習の中で真似をする時もまず、聞く訳です。そして、次に真似をしてみる。と同時に自分の発した音も耳で聞く訳です。

更に、舞台などで効果音や、BGM、相手方の台詞、装置や道具などの音を良く聞く事、それによって反応する事で「目」だけでわからない反応をする事ができます。

別の話になってしまいますが、「台本を覚える」というのも、一日一回、声をだして、(ト書きも総て)読むだけでも、進捗が違ってきます。目の情報だけではなく、自分の声を聞き、耳から入った情報というのも加味されますので。

話を元に戻して、俳優さん、声優さんは『違いのわかる耳』を鍛えるべきだと考えています。
音の高低、抑揚、大小、強弱、、、総ての音は耳から入ってくる訳ですから、自分で練習しているときも、お稽古で他の人のお芝居を見て聞いている時も、”前回との違い”や”自分との違い”を漠然とはではなく、明確に把握する事によって、自分のお芝居に磨きがかかると思います。
耳をより鍛える事、違いを耳で意識することで今までの基礎練習の進歩も舞台作品のお稽古の進捗もちがってくる、私はそう考えています。
タグ: 役者 違い
posted by 武藤賀洋 at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月29日

大好きになる!心の底から愛する!!

皆さん、秋と言えば?
芸術の秋でしょうか?スポーツの秋、はたまた読書の秋でしょうか?

こういう仕事をしているので『芸術の秋』であるべきなんでしょうけれども、専ら私は”食欲の秋”です。
先日、父のお誕生日のお祝いに食事をしたのですが、そこで頂いた牡蠣鍋が絶品で〜
秋から冬にかけて、食材もそうですし、お酒も重ねられる、良い季節になってきました!
冬生まれの私としてはこれからの時期、本当にたのしみです!あ、そうそう。お酒は成人してからですよ〜


さて、今日は役作りの基本のうちの一つ『役を知る、イメージする』ということを考えてみたいと思います。
先だっても書きましたが『役を無条件に好きになる。』と言う事が大切だと思うのです。

これは訓練が本当に必要だと思いますが、役を好きになれなければ、役作りも役にたいするイメージもスムーズに行かないと思うのです。
つまり、役作り、役に対するイメージというのは、その役(キャラクター)について如何に肯定的になれるかという事だと思うのです。

ところがこの肯定的な見方でも「評論」的な肯定では困るわけです。何故ならば、役作りを行い、役を演じるのは他ならぬ自分自身なのですから。(役作りをしていく過程である種、客観的見地は必要になってきますが・・・)

ではどうしたら良いのか。それは、担当する役を『大好きになる!心の底から愛する!!無条件に好きになる!!!』のはもちろんのこと、恋愛にも似た感情で、その役と向き合う事が必要だと思います。このブログを読んでいただいている皆さんにも1回くらいはあるでしょう?片思いをしたこと。恥ずかしながら私にもあります。そうです、この歳ですからね、、、なんどでもありますさ。。。まぁ、それはおいておいて・・・片思いになるとどんな状態になるでしょう。イメージしてみてください。

四六時中、その人の事を考えるようになりませんか?
あの子は今、何をしているんだろう?
あの子の好きなものはなんだろう?
そして、どこに行っても何をしても、その子が基準になってしまう。
「ここにあの子と来たらどんな話をするだろう。」
「これをあの子と食べたらおしいだろうな。」
そうなんです。恋は盲目といいますけれども、片思いをしている時は何を見ても聞いても”肯定的”であると同時に評論でもなんでもなくなるわけです。ポイントは「その子の事を思うとすべてその子が基準になる」ということなんですね。

これはあくまで『演出ノートblog』であって、恋愛ブログではないので、話を元にもどしますが、役へのイメージもこうした部分と同様にその役を基準に肯定的且つ様々な場合をイメージしなければいけないわけです。ですので、その第一歩として、役を無条件に好きなる事が必要なわけです。
その上で寝ても覚めても(くらいに)その役に向き合い、考え、イメージしなければ、役作りなど到底できないと思います。

20101029_c.jpgこれが台本を読み、評論的なものが加わってしまうと、役に対して否定的な部分が出て来てしまう恐れがあります。「この役はこうしているけど、俺にはできないなぁ」となってしまいます。先だっても言いましたが、アマチュアや趣味でやっているのであればこれも許されますし、役替えを申し出たり、勝手に台詞や動作を変更してしまうのもあると思います。しかし、プロフェッショナルでやるのであれば、前提は台詞を一言一句かえず、ト書きも最大限に演じきることが求められます。(アドリブなどについてはまた別途書きますが、新人さんの時にはやればやるほどぐだぐだになってしまうことが多いです。)対象の役が同性の事が多く、恋愛のような片思いにはなかなかなれないとは思いますが、役者の仕事として「役を好きになる」というのは絶対条件であると思います。何故ならば、その物語の世界でその役は(役自身は自己否定する場合もあると思いますが・・・)存在し、生きている訳ですから、物語の世界を役者が否定しては成り立ちません。

また、こういうこともありませんか?オーディションや初見の際になかなか役をつかむ事ができないこと。これは往々にして、イメージ不足だと思うのです。つまりイメージできてないから、しゃべれないし、何をしていいかわからない。普段の生活でもそうですよね。自分の知っている事はたくさんしゃべることができるけれども、知らない事はしゃべったり、動いたりする事ができない。つまり、役作りというのは、「役を知る」という作業の繰り返しだと考えています。その作業の中に役者としての疑問は存在したとしても、否定はあってはいけないわけです。疑問は読み込み、作り込む事により解消されますが、否定は否定で残ってしまい、役がぶれてしまいます。役作り、役を知る第一歩として、「役を好きになる事」はとても大事だと考えています。
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2010年10月22日

間合い

子供と犬と猫には大人気、武藤です!
いやぁ、本当に最近は秋らしくなってきて、朝夕の冷え込みと言ったらないですね。
11月までお布団を入れるのを我慢して毛布ですごそうかと思っておりましたが、、、
先日ついにお布団を入れてしまいました。年々なにかこう、、、辛抱が足りなくなってきているような気がします。これではイカンな。暑さ、寒さにもう少し順応できるようにしていきたいと思います。

さて、本日は、”距離”、”距離感”ということについて考えてみました。

よく武道では、『間合い』という言葉があると思います。
これを辞書で引くと「自分と相手の距離」と出ています。
この間合い、実は舞台上の役と役、役と装置、役と空間・・・の中にも存在するものだと考えています。

この間合い、武道でもそうなのだと思うのですが、適正な距離よりも近ければ近いなりの、遠ければとおいなりの動きが出てくると思うのです。また、遠すぎても近すぎても不味いことになることもあるかと思います。

武道、とこに剣道でいうところの『一足一刀の間合い』というものがあります。
これは、所謂適正な距離だと理解しています。剣道の基本的な距離の取り方で、一歩踏み込めば相手に打突を加える事の出来る距離であると同時に一歩引きさがれば相手の攻撃をかわすことが可能な距離であります。
さらにこれよりも遠い間合い、すなわち、相手が打ち込んでも届かないかわりに、自分の攻撃も届かない距離感、同じように、自分の攻撃が簡単に届いてしまい、且つ、相手の攻撃も用意に届いてしまう、近い間合いも存在します。

お芝居にはこのような見た目、攻撃ということは存在しませんが、(無論、台本の中でそのような場面は別ですが・・・)これと似たような距離感をコントロールすることを求められます。
往々にして舞台では様々な距離が存在します。アニメや洋画のアテレコの世界でも同じではないでしょうか。
私はこれを物理的距離と倫理的距離とにわけて解釈をしています。

20101022_a.jpg例えば・・・舞台では立ち位置は舞台の端と端に男女が立っているとします。二人は恋人どうし。
脚本上には「二人寄り添って愛をささやく」としてあるとします。この場合、そりゃあ、寄り添えば何てこと無いんですが、演出や作品として何を訴えたいかによって、こういうシチュエーションになるときが多々あるかと思います。このとき、舞台上の二人の距離が物理的距離、台本上の「寄り添う」という文言から導かれる気持ちの距離感を倫理的距離と解釈しています。

この二つを混ぜ合わせ、脚本上にある「寄り添って愛をささやく」というものを表現しつつ、舞台作品として物理的距離を有意義に生かすことができると表現の幅が飛躍的に広がるのではないかと思っています。

これと似た様なことにアテレコ/アフレコの現場では画面上に恋人の二人が映っていても実際に声を入れている声優さんは部屋の端と端のマイクだったりするときがあります。

この倫理的、物理的距離をイメージでき、且つクリエイトできることが役作りにとって必要なのではないか、そう考えています。

こと、舞台の世界では劇場の大きさや、他の役、装置、道具などとの間合い、距離感というものがダイレクトにお客様に伝わって行きます。ですので、この距離、距離感というものを常に意識していないと一人とんでもない動きや台詞になってしまう事がありえます。特に自分の世界観、自分の距離感のみでお芝居を行うと他者との兼ね合いや演出の求める距離感がぐちゃぐちゃになって、台詞をおっているだけの祖末な演技になってきてしまうでしょう。

前述しましたが、物理的な距離、論理的な距離を十二分に把握し、自分の役と他の人の役、装置、道具との間に、その時々にあわせた適正な間合いを持ち、発する事が大事である、そう私は考えています。


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2010年10月01日

きっかけ聞く気か聞かん気か、きっかけきくこがきっかけを聞く。

今日から10月。
お仕事的には下半期に入り、さらに年末も近づいてきて、、、
なにやら忙しくなるような気がしています。。。既にどたどた動いているのですが、、、
こういう風に忙しくなると、ついつい、確認という作業を怠りがちですが、
こう言う時こそ、しっかりと確認し、慌てる事、焦る事なく、迅速に色々と取り組んでいきたいものです。

さて、今日は、『間』ということについて考えてみました。

お芝居で一番大切な要素の一つに私は『間』があると思っています。
私のお稽古場に来たことがある人は「ムトウさぁ、間が大事だっていうわりには「間」ってお前の口から聞いたことないけど?」って思われるでしょう。

私は「間」のことを「きっかけ」と言うことが非常に多いです。動機と解釈しても良いと思いますし、衝動と解釈することもできるかもしれません。

私は「間」というのを時間的な「間」(あいだ)とは解釈していません。後に詳細な考えは記述する予定ですが、「間」というのはその役が次の台詞、仕草、所作に入るための準備の時間と心の動きだと捉えています。と同時にお芝居、作品全体の「間」、私の言うところのきっかけも存在していると思います。幕が上がれば、舞台上にいなくても全ての出演者はきっかけを作っておいてほしいものです。

20101001_001.jpg乱暴な言い方をすれば、とある役の台詞から台詞のあいだは大きな「間」と捉えることもできるのではないでしょうか?つまり脚本に「(間)」などと指定されていなくても、物語の様々なところにきっかけ、間が存在していると思います。同じ作品を違う俳優さんや声優さんが演じても同じにならないのはこうした間(きっかけ)がそれぞれ違うからでないでしょうか。

そして、この『間』、きっかけのコントロールこそがお芝居の大部分を占めるものだとも考えております。これは、自分の"間"だけなく、相手の動作、仕草をきちんと理解し、コントロールすることであり、自分勝手な『間』を作る事ではけしてありません。お芝居に慣れてきてしまうと、この自分の『間』、きっかけを大事にするあまり、相手のお芝居を受ける『間』、”きっかけ”を忘れてしまいがちですが、自分の間も相手の間ーーー自分と他者とのきっかけ、台詞、動作、仕草、表情につながる瞬間ーーーをきちんと確認、理解し、自分と他者との協調、連携をしていかないと、お芝居とはほど遠い、段取りだけのなんとも味気のないものになってしまうと思います。

また、自分の台詞が無い時にこそ、きっかけを創る最大のポイントだと私は思いますし、台本上での、自分の台詞、仕草、動作が始まった瞬間にはもう、お芝居は終わっていると私は考えます。
タグ:きっかけ
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2010年09月24日

理系と文系と直感と理論


寒い、寒いです!!今日はスタジオに打ち合わせに行くのに、ジェケットを引っ張り出してしまいました。
この僕が!ですよ!!!この暑がりな僕が!!!夕べは毛布にくるんで寝てしまっていました・・・
さ〜む〜い〜しかし!しかしですよ!!これから食べ物がおいしくなる季節です!!
冬になれば、鍋もおいしい季節になって参ります!!楽しみです〜

この寒暖の差、喘息やアレルギーをもっていらっしゃる皆さんは辛い時期だと思います。
季節の変わり目、皆様、是非ともご自愛ください。



さて、今日はお芝居をするにあたって、どういう脳の動きをすればいいかなぁ〜と大まかに考えてみました。

結論から言えば、僕はバランス良く二つの思考を使う事が望ましいし、理想的だと思います。

ちょっと話はそれますが、役者さん(俳優さんや声優さん)を目指してる高校生の方からよく質問を受けます。
『文系と理系どちらにすすめばいいですか?やはり文系ですか?』と。。。わたしは『どちらも大事ですから自分の得意な方に進むと良いですよ』と答えます。

20100924_00B.jpgこれは、理系の学校を卒業されている役者さんも多々いらっしゃいますし、無論、文系の学校を卒業されている役者さんもたくさんいらっしゃるわけです。ですので、一概にどちらが良いとは言えないのです。よく、理系の脳の働きは”論理的思考”と言われ、文系の脳の働きは"直感的思考"などと大まかに分けられる事があると思います。私は、お芝居をしていくにはいずれの思考もバランス良く取り入れるのが良いと考えています。例えば、とある役を頂いたとしましょう。台本を読み、”直感的に”色々な事が頭を駆け巡り、思いを馳せます。
これがないと、イメージ(想像)がうまく行かないと思います。そして、その物語のその登場人物について、他者(他の役者さんや演出家、監督などなど)とお話しする時には、なるべく具体的に、ある種論理的に話した方が伝わりやすく、自分でも整理ができると思います。論理的にとは「経験的にこう思いました」や「直感で感じました」ではなく、「××という台詞から、△△ということがわかり、○○と感じました」というよりに、理由と結果や道程と結論が道筋立てて説明できることです。

同時に(これはまた別の機会の時にも書きたいと思いますが、)自分一人で役のベースを作る際にも、この"直感的思考"と"論理的思考"を組み合わせて、自分の役に対する思い、考えに矛盾がないかどうか確かめることもできると思います。しかし、人間ですからどちらかに偏ってしまうのもまた事実です。バランス良く、この二つの思考を組み合わせることによって、役作りに多いに役立つと思うのです。例えば、とある役の役作りをしようと思った時に、直感的に役をつくる事で大まかにはできると思います。一人でやる分にはこれで良いと思います。しかし、お芝居は大勢の共演者やスタッフと共に作り上げます。この時、大体の場合、演出からの注文が入る訳ですが、この注文をどうしても理解できない場合がある訳です。色々な要因があると思いますが(自分の直感への思い込みが激しかったり、また後述ますが、素直に受け取れなかったり、経験が邪魔したり)こうした場合に自分で噛み砕く時に”論理的思考”は大変、役に立つ訳です。しかし、論理的な思考だけでは足りません。自分の直感、感性をきちんと磨くことは役者さん、表現者にとってとても大切なことなのです。

最初にも書きましたが、感性、直感、論理的思考、これらを上手にバランス良く使う事が、非常に重要であると私は考えています。
posted by 武藤賀洋 at 19:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月17日

やりとりするのは?!

めっきり秋らしくなったと思ったら、大雨・・・また、暑くなりと・・・
季節の変わり目ですが、皆さん、体調如何ですか?
この時期、夏バテならぬ秋バテといわれる、お腹が冷えたりする症状が多く見受けられるそうです。
是非ともご自愛ください。

かくいう私は・・・お腹をやられまして・・・うーあー。

さて。今日は、『きかっけのやりとり』ということについて考えてみました。
よく、お芝居の勉強を開始されたばかりの方から
『台詞のキャッチボールをするにはどうしたらいいんですか?』
と聞かれます。
この言葉は間違っている訳ではありません。
が。
台詞だけに注視してしまうと危険だとも思います。


私はお芝居を台詞(だけ)のやり取りだと思っている方は永遠に表現者(役者)にはなれない。
と考えています。

たとえば、演劇やアニメ、洋画を見ているお客様は勿論、その作品の脚本を見ながら、鑑賞するわけではありません。ですので、お稽古や練習するときに、台詞の言い方や言い回し、文字の面ばかり気にしないようにすることが大事かと思います。IMG_6608.jpg実際のお芝居では自分のきっかけ、他者のきっかけを十二分に取り入れて、動作のひとつである、「会話」が成り立つと思うのです。おしゃべりしている時に、言い方を気にしながらしゃべっても相手に伝わらない時って多いと思いませんか?何よりも違うところに気を遣ってしまって、重要な論点だったり本当の気持ちだったりがボヤけてしまう事が多いと思います。ですので、しゃべるときも聞くときも文字の面ばかりを追うのではなく、その人の表情、語気などを出来れば体温、勢いなども含めて会話できると良いと思います。

よく、
「あなたがこう言ってくれないから、私はこう言えない」
と言う学生さんを見受けます。
おしゃべりだけ変えれば、はたして、思うような言い回しができるのでしょうか。物言い(台詞回し)にだけ固執すると、それにとらわれてしまい、仕草や動作がおいつかなくなってくると思いますし、同時に、(これはまた、別途記述しますが・・・)相手のあるお芝居の事ですから、その言い回しは取り込んで自分で処理し、出力することができなければ、これまた役者さんとは言えないと私は考えています。

お芝居を台詞のやり取りだけだと思っている方は永遠に表現者にはなれない。お芝居は気持ち、きっかけ(間)のやり取りである。そう、考えています。
posted by 武藤賀洋 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月10日

はりあげてまいりましょう♪

この暑さもあと1〜2週間くらいと天気予報では言っております。
もう、9月にもなれば、涼しい風が吹いてきても・・・
ただ、やはり、地球はすごいですね。昼間がどんなに暑くても・・・
朝夕は涼しい空気になっていっております。
季節の移ろい・・・今年は稀にみる酷暑でしたが、食欲の、いや芸術の秋はもうすぐそこまで来ています!!


さて、本日はテンションというものについて考えてみようと思います。よく、お芝居をする上で「テンションあげて〜」なんて声があることがあります。はたしてこの”テンション”とは一体なんなのでしょうか・・・

私はテンションを『緊張』と理解しています。

辞書(三省堂 大辞林 )で意味を調べると、
テンション 【tension】
 1 緊張。不安。
 2 物理学で、張力(ちようりよく)。
 3(主に若者語で)気分の盛り上がりのこと。

となっています。釣りをよくやる人は釣り糸のテンションの具合、等という言葉でおなじみかもしれません。IMG_2737.jpg事、役者さんにとって、テンションとは、「気持ちの変化をコントロールするための緊張(状態)」だと私は考えています。つまり、例えば、大泣きするシーン、悲しいシーンこそ、テンションを目一杯張らなければいけないのではないかと考えています。ちなみに私は仕事場では「テンションを上げて」とは言いません。「テンションを張って」と言います。これは、舞台上、周りに目を配り、様々なことに対応できるように緊張する、
いわば、何に対しても反応できる状態にしましょう、という意味で使用しています。緊張の状態といっても、身体が硬くなっては意味がありません。気持ちも身体もリラックスし、同時に適度に引き締めることが必要なのだと思います。自分自身でそのバランス感覚を身につける事も非常に大事だと思います。

テンションを張り、色々な状況に対応できる準備ができてこそ初めて、
気持ちの変化、盛り上がりも盛り下がりも表現できるのではないか、
私はそう考えています。
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2010年09月03日

想像して創造する

早いもので9月になりました〜
今年の暑さは記録破りの暑さだそうで・・・
本当に毎日暑い日が続きますが・・・天気予報によるとあと2週間くらいの辛抱だそうです。
それでも朝夕に秋独特の涼しい雰囲気が漂っている気がします。
もう、そこまで秋の足音が聞こえてきているような気もします。


さてさて、今日のお話はというと、想像するということと創造することについて考えてみました。

お芝居をつくる上で『想像』と『創造』は大事だと私は考えています。
読み方は同じですが、やる事は違います。


イメージがはっきりしていないものは人間は表現できないのではないかと考えているからです。
あやふやなイメージのまま何か動作(台詞を言ったり、仕草をしたり)をしてもやはり、それはなんとも中途半端なものになってきてしまうと考えるものです。台本や脚本、シナリオの世界では所謂、虚構のモノが書かれていることがあります。

しかも、演じる役者さん本人としてみればーーー仮令、キャラクターがその行動に必要な衝動があったとしても、全然必然性、必要性のない行動を取らねばならないわけです。

004_m_final.jpgまた、こんなことも考えられます。
舞台でもアニメでも、現実にはまず実現不可能なことがままあります。
また、犯罪行為が物語上では行われる場合もあります。
例えば、ドラゴンボールの孫悟空がかめはめ波を出したり、鉄腕アトムがそらを飛んだり。
はたまた、王女メディアが子供を殺したり、前田慶次が人を斬ったり・・・
もちろん、画面や舞台上ではそのキャラクターたちがところ狭しと上記のような行動をしているわけです。
それを演じる役者さんはこうした事ができたり、経験したりしているのでしょうか。
今までの経験上、空を飛ぶ人間もかめはめ波を打てる人間もお目にかかったことがありません。
前述を演じる役者さん方は壮大なイメージを明確にもって、それを表現されているのです。
イメージを漠然ともつことは存外簡単なのですが、事細かにイメージを練り上げていくこと、
しかもそれを一瞬にして行うことがとても大事なわけです。
例えば、空を飛ぶキャラクターを演じたとしたら、飛んでいる時の空気感、自分の掌の感覚や顔の感覚、
心情や視界を明確にイメージできることが大事だと考えます。

無論、法を犯さず、様々な経験を積むことで、より一層のイメージを深めることができるわけです。

例えば!ヘリコプターに乗って空を飛んだことがある人とまったくない人では、上記のキャラクターを演じる時にベースのイメージが違うでしょうし、役作りの時間や方法もまったく違ってくると思います。

台本をもらったら、制限なく、まずは自由にイメージし、空想し、そしてそれを具現化するべく何通りも試してみる。
そして、監督や演出の意向を聞いて、変更を時には根底から創りなおす、こういう作業が非常に重要だと私は考えています。

また、別途記そうと思っていますが、イメージと思い込みは似ているようで違うものであり、イメージを固めてしまっては、固定観念となってしまうことが多いようです。柔軟に周りのキャラクターのイメージを柔軟に取り込みそこから己の役を具現化することは非常に大事だと考えています。

posted by 武藤賀洋 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月27日

コックさんとお医者さん

この時期に感じるのは・・・"夏休みの宿題"についてです。

小学生の頃、自由研究ではいつも木製のロボットを創っていました。
中学生の頃、なんか、歴史関連の調べものをしていたでしょうか・・・
高校生・・・出した記憶が・・・
養成所の頃・・・毎日、台本読んでました・・・

昨今思うのが、宿題を出す側になると・・・本当に有意義な宿題ってなんだろうと考えてしまいます。
特に役者さんを目指す人にとっては、基礎練習は毎日くらいにやってほしいですし、(1日サボると3日後退する、なんて芸事の世界ではいいますよね・・・)それと同じくらいに感性を刺激するために、いろいろな遊びや体験などなどをしてほしいとも考えています。

宿題って出す方もやる方も・・・難しいですね。


さて、さて。
今日は役者さんと演出家のお仕事をちょっと考えてみようと思います。

私の大変尊敬する演出家の先生は昔、私にこのようなことを言っておられました。
役者や演出家というのは、料理人に似ているね。素材を吟味して、台本というスープで煮て、作品という料理をお客様に出すんだよ。役者も演出家も包丁の腕も火加減も盛り付けの仕方もしらなきゃならない。一流の料理人になればなるほど、どんな素材でもおいしくするんじゃないかな? いろいろ文句をつけて料理できない料理人なんていないだろう?そんな人は 二流、三流ってことだね。


まだ、10代だった私はノートにこのお言葉を書きつつも今一つ、理解していなかったのだと思います。
今は先生がおっしゃっていたこと、身にしみて理解されてきたのではないかと思っています。
どんな素材(役や台本はたまた演出指示)でもやって(下ごしらえして)みる。そして、それを最高に創って(調理して)お客様にお出しする。下ごしらえや調理の段階で様々なトラブルがあろうかと思います。しかし、そのトラブルや予期せぬ事態に文句を言ってやらなかったり、できませんとさじを投げるようでは一流ではないと思うのです。たとえば、「鍋が自分の予想より小さかったのでできません。」こんな事を言っていては、そのレストランや料理屋さんをやめさせられてしまいますよね。
そこを経験と知恵を使って調理する事こそ一流の料理人であり、こういった事とお芝居(役者さんや演出家)は非常によく似ていると先生はおっしゃっていたと思います。

そして、研究を続けていくうちに、私には芝居/演劇の関係者は医師にも似ているのではないかと思い始めました。お医者さんは私達の健康を守るために日夜勉強を続けていらっしゃいます。医学という基礎理論を基に千差万別の症状に立ち向かい、それを解決する。1226.jpg私達も基礎練習、基礎理論といった様々な膨大な知識を用い、千差万別の現場に適応する技術と精神を身につけなくてはならない。そして、役者であり続ける限り勉強を怠ってはいけないと思うのです。経験だけを頼りに手術されたらたまったものじゃありませんよね。経験と知恵と普段の研究をしているお医者さんなら安心です。そして、千差万別の現場に対応できないお医者さんも・・・ちょっと怖いです。『盲腸が思った場所になりから治療できません』なんてお医者さんがいたら・・・これは、役者さんや演出家にも言える事だと私は考えています。常に勉強をし、柔軟に対応していくことが役者さんや演出家にも求められているのではないでしょうか。

さらに他にも色々な職業に例えることができるような気がします。
色々な職業との共通点を見つけ、表現に、役者修行に反映し、活かしていくとより興味深いかもしれません。
posted by 武藤賀洋 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月20日

役を好きになるということ

1週間って早いですね〜
世間ではお盆休みで、都内の移動は本当に楽チンでした〜
皆さんはどんな夏休みをお過ごしになられたでしょうか?

学生の方はあと二週間くらい?のお休みを是非、有意義にたくさん遊んで、
感性を研かれて下さいね!!
また、別の機会に書きますが、「○○館」や「○○園」というような場所で
生(ライブ)の物を見て刺激を受ける事はとても良い事だと思うのです!

さて、今回は”役作りの第一歩”について書きたいと思います。

よく、学校の講座やワークショップなどで、
『キャラクターになりきるにはどうしたらいいですか?』
とか
『役作りってどうすればいいですか?』
という質問を受けます。

IMG_2364.jpg具体的な方法は数々あろうかと思います。
しかし、共通する第一歩が、

『役を無条件に好きになる。』

という事だと考えています。

単純なことのように思いますが、これがなかなかどうしてできるものでは無い時があります。

もし、自分のキャラクターに合わない役が来てしまったら・・・
もし、自分が嫌いなタイプの役が来てしまったら・・・
もし、自分がやったことのない役が来てしまったら・・・
もし・・・

お仕事で役をもらったのでなければ、
(趣味やアマチュアでやっているのであれば、)
役替えを申し出たり、
もっと言えば、台詞や仕草を自分の思うとおりに変えてしまえば
済むことです。
しかしながら、お仕事だとそうは行きません。
なにせ、俳優さんや声優さんの代わりはいくらでもいるわけですから、
「これ、合わないと思うので変えたいんですけど」
なんて申し出たら、もう、そのお仕事はできません、きっと。

でも、さきほど書きましたとおり、
"もし、自分のキャラクターに合わない役が来てしまったら・・・"
ということが無いとも限りません。
自分の希望通りの役ばかりがくることは実際のお仕事の中では少ないのではないでしょうか。
厳しい事を言えば、当て書きなどでは無い限り、その役について寸分くるわず演じる事が役者さんのお仕事であろうかと思います。

そんな時の役作りの第1段階として、
役を好きになる
ということをしてみては如何でしょうか?

お友達や恋人でも第1印象が最悪だったとしても、
お話をしたり、関わるうちにその人のよいところが見えてくると思います。

それと同じに、かどうかはわかりませんが、自分が気に入らない役をもらったとしたら、
「何故、この役はこのような行動をとったんだろう」、
「この役のこの台詞は僕じゃあ、言えないけど、これを言った気持ちってどんなだったんだろう」
などと肯定的に考えてみると良いと思います。

どんな役でも、無条件に好きになり、
その役のどんな事でも肯定できるくらい好きになる。
そうすることで台本に書かれた限られた情報から、書かれていない情報まで
想像、イメージする事ができると思うのです。
無条件にその役を好きになる事が、役作りの第一歩ではないでしょうか。

側面から考えると、役を好きになれない役者さんはその役にはなれないとも私は考えています。

また、別の時に書きたいと思いますが、役者さんに必要なのは、どんな役でも肯定的に考えられる思考と、どんなことでも受け入れられる素直さがプロフェッショナルでやっていく上で必要な要素だと私は考えています。
posted by 武藤賀洋 at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現論【ムトウ版】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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